同じ頃(日本時間六月三日)、ミッドウェーの北東三百二十五マイル(六百キロ)の海面で、思案にふけっている一人の提督があった。その名は、レイモンド・A・スプルアンス。アメリカ海軍においては、とりたてていうことのないような、砲術科士官、いわゆる大砲屋であった。つい十日ほど前まで、彼は、自分がアメリカの、ひいては、日本の運命を左右するような熾烈な航空戦を指揮するようになろうとは、夢にも考えていなかったであろう。
スプルアンス少将は、“鬼のハルゼー”もしくは、“ワイルド・モンキー”とあだ名されるハルゼー中将の部下であった。日本の利根、筑摩《ちくま》をひきいた八戦隊司令官の阿部弘毅少将のように、スプルアンスの任務は、巡洋艦や駆逐艦をひきいて、空母の護衛をすることであった。
ところが、ハルゼーが、エンタープライズ、ホーネットをひきいて、珊瑚海海戦の現場に駆けつけ(実際には間に合わなかったが)、五月二十五日、ニミッツの指令で真珠湾に入港したときは、重い皮膚病にかかっていた。口の悪い部下は、“人殺しハルゼー”が、部下をきたえすぎたので、罰が当たったのだ、と言ったり、航海中に発病するとは、タチの悪い病気ではないか、とかげ口をきいたりした。
何にしても、ハルゼーは、ヤマモトとナグモの艦隊が近づいて来るので、気が気ではなかった。とくに、十二月七日、彼が留守をしている間に、真珠湾を叩いたナグモとは、是非、お手合わせを願わなければならぬ、と考えていた。しかし、肌の痛みは、その戦意をも喪失させるほどに甚だしく、皮膚はただれて、“ワイルド・モンキー”は、“オールド・モンキー”と呼ばれるほどに憔悴《しようすい》していた。
真珠湾で待っていた太平洋艦隊司令長官ニミッツは、ハルゼーの顔を見ると、入院を命じた。当然のように、ハルゼーは抗議した。“リメンバー・パールハーバー”を具現化出来る最高の機会である。
「ニミッツ、あんたは、おれに死ねというのか」
ハルゼーは、ただれた顔を、ひきつらせて、我鳴《がな》った。しかし、ニミッツは冷静だった。
「ビル(ハルゼーのこと)。よく聞いてくれ。おれは、君のためを思って言っているのではない。君が皮膚病のまま前線に出て行くと、きっと途方もない命令を下す。その結果は、ヤマモトや、ナグモが笑うだけだ。ミッドウェーの線を破られれば、ハワイも危い。ビル……。おれは、ハリウッドのスターが、日本のパイロットに媚《こ》びを売りつつダンスをするのを見たくない。理由はそれだけだ。誤解しないで欲しい。ビル……」
ハルゼーは、声をのんで、この友情にあふれた先輩の顔を見守った。別れぎわに、テキサス生まれのチェスター・W・ニミッツは言った。
「ビル……。おれの故郷ではな、その手の皮膚病には、馬のミルクを醗酵させたバスに入ると効くというぜ」
「ありがとう、チェスター。おれは、カメハメハの銅像に誓って、そいつを実行するぜ」
ハルゼーは、そういうと、長官室を出た。
事実、彼は、カリフォルニヤから、馬のミルクをとりよせて、入浴を試みた。そして、皮膚病は治らなかった。
日本の“人殺しの水雷屋”ナグモに対して、アメリカの、“お嬢さんのような大砲屋”スプルアンスが、両機動部隊をひきい、ミッドウェーをはさんで対決することになったのである。
ニミッツは、スプルアンスを呼ぶと言った。
「いいか、英雄になろうと思うな。君が英雄になっても、アメリカが負けては、何にもならん。勝とうと思うな。刺し違えろ。しかし、フィフティ・フィフティはいかん。向こうは四隻、こちらは二隻だ。こちらが沈んでもいい。向こうの全飛行甲板を叩け。今、ヨークタウンが、修理中だ。うまく行けば、つまり、ナグモが、予定通り六月三日以降に戦場に到着するならば、ヨークタウンが間にあう」
「ナグモの空母が見つからないときは、どうしますか」
「そのときは、ヤマモトを叩け。七万トンのヤマトに乗って、ナグモの後方、三百マイルに続いているはずだ」
「ヤマモトが……。何のためにヤマモトが出て来るのですか」
「戦争見物だろう。それとも、戦地加俸が欲しいのかも知れん。何にしても、ヤマモトをつぶせば、日本軍は後退する。知っているだろう。アパッチでも酋長を殺されれば、旗を巻くんだ」
テキサス生まれの長官は、きわどい所で、シャレを飛ばした。
スプルアンスが退出しようとすると、ニミッツが呼び止めた。
「レイモンド……。わかってくれるかね。私の心臓は、いま、少女のようにふるえているが、それは喜びのときめきではない。一つだけ言っておく。サラトガが、修理を終わり次第、サンフランシスコからミッドウェーに向かうことになっている。早ければ、六月六日には、ミッドウェーに接近出来るだろう。それまで、何とか持ちこたえてくれ。病院で待っているビルを落胆させないで欲しい」
ニミッツは掌をさし出し、スプルアンスはそれを握り返した。
このようにして、スプルアンスは、アメリカ海軍が可動し得るただ二隻の空母、エンタープライズと、ホーネットを連れて、五月二十五日、真珠湾を出港した。
エンタープライズの艦橋で、双眼鏡を手にしたスプルアンスは、何げなく陸上を振り返った。二つの視線が、彼の背中を刺していた。ワイルド・モンキー・ビルと、テキサスの赤馬(顔が赤い)ニミッツの二人であった。しかし、スプルアンスは、双眼鏡を眼に当てようとはしなかった。ニミッツが、与えた言葉が、彼の背中にのしかかっていた。——英雄になろうと思うな。刺し違えろ——。
そのときスプルアンスの出港を見守っている、いま一人の男がいた。第十七機動部隊——といっても、ヨークタウン一隻であるが——を指揮するフランク・ジャック・フレッチャー少将である。ヨークタウンは、ドックのなかにいた。珊瑚海海戦で、ヨークタウンは、二発の至近弾と、一発の直撃弾を受けていた。
ニミッツは言った。
「六月三日までにミッドウェーの戦場に到着するには、五月三十日までに修理を完了せねばならぬ」
ヨークタウンの艦長、バックマスター大佐は、いとも気軽に答えた。
「アイ、アイ、サー」
ニミッツは、明らかに怒っていた。彼は、バックマスターがふざけていると考えていた。(しかし、実際に、ヨークタウンは、五月三十日の朝、出港し、六月五日の海戦には間に合ったのである)
フレッチャーの悩みは、別のところにあった。彼は、スプルアンスよりも先任であった。ハルゼーが入院した以上、ミッドウェーにおける指揮は、自分がとらねばならない。倒れるなら、スプルアンスと共に倒れるべきだ、と彼は考えていた。
スプルアンスは、エンタープライズ、ホーネットからなる第十六機動部隊をひきいて、六月一日午後、ミッドウェーの北東、六百二十五マイルに位置した。
六月二日は、天気が悪かった。雨雲が低く、視界が悪かった。しかし、午前九時、ヨークタウンの索敵爆撃機(SBD・ダグラス・ドーントレス)が雲間から現われ、バンク(翼を左右に振ること)をしながら、エンタープライズに接近すると、飛行甲板の上に赤い報告球を落とした。整備員がひろって、艦橋に届けた。飛行長がひらいて、報告した。
「本日、午後四時、ラッキー・ポイントに到達の予定。フレッチャー」
ラッキー・ポイントとは、まさにスプルアンスがいるその地点である。スプルアンスは微笑した。——これで三隻だ。悔いのない戦いが出来よう。敵は四隻だが、こちらには、情報という味方がある——。
ミッドウェーに参加した米海軍将兵の間では、“ラッキー・ポイントにおけるランデブー”ということばは、長く忘れられないことばとなった。
そして、六月三日(日本時間)午前十時、スプルアンスは、ラッキー・ポイントの近くを往復しながら、情報を待っていた。
——予定通り、ラッキー・ポイントでランデブーすることが出来たが——とスプルアンスは、前夜の霧で湿った飛行甲板を往復しながら考えていた。——果たして、この地点がラッキー・ポイントになるかどうか、わからない——彼の危惧《きぐ》はそれであった。
ニミッツは、はじめ、ミッドウェーから、さらに西に進出して、いち早くナグモを捉《とら》えるように指令した。それに対して、スプルアンスは、ミッドウェーの手前、すなわち、ラッキー・ポイントで待つことを提案した。彼は言った。
「敵は、AFすなわちミッドウェーを襲うという情報であるが、敵が果たして最後までミッドウェーに来るかどうか、私は疑ってかからなければならない。わが方の企図に気づいた場合、ナグモは剣を返して真珠湾に向かうかも知れない。それでは、われらは、二階へ上げられて、梯子をとられたようなものである。加うるに……」
と、彼はニミッツの顔を見ながら、まじめな顔をして言った。
「私の部下には、ハワイに妻子をおいている者が多い。ハワイを気にしていては、満足な戦いは出来ない。その点、ミッドウェーの北東ならば、いつでも、ハワイに戻れる。本当にナグモが出現したら、全速で西に進みましょう」
ニミッツは驚いてスプルアンスの顔を見た。
「スプルアンス……。わしは、もう少しで君を尊敬してしまうところだった。このプランをビルに知らせてやりたい。少なくとも、三十分間は、痒《かゆ》みが止まるだろう」
こうして、彼はニミッツとラッキー・ポイントを協定したのだった。——もし、ナグモが南西から接近したら——その時は、味方の索敵機に、全幅の信頼をおくよりほかはないのだった。
スプルアンスには、いま一つの心配があった。フレッチャーが先任指揮官で、この作戦を指揮するのであるが、結局は自分のエンタープライズとホーネットが、作戦の窮極を決するだろう、と彼は予測していた。ヨークタウンは、真珠湾で応急修理をして出て来たが、全速で二十七ノットしか出ない。加うるに、珊瑚海海戦で、搭乗員の大部分を損耗して、サラトガの搭乗員を緊急補給している始末である。——一体、サラトガの飛行甲板には、何を載せるつもりだろう——乗員は、珊瑚海から帰ったら、サンフランシスコのチャイナタウンでビールが呑めると考えていたのに、一歩も上陸外出を許されず、突貫工事で、修理をして、再び新しい戦場に向かって来たのである。多くは期待出来ない。
そこへ行くと、こちらにはエンタープライズ爆撃隊長のマクラスキー少佐、ホーネットの雷撃隊長、ウォルドロン少佐などのような、聞こえたベテランがいる。——結局、マイ・サイド(こちら側)で、結着をつけねばなるまい——と考えながら、スプルアンスは、搭乗員待機室に入ると、トランプをやっていた一人の将校に訊いた。
「長期間飛行した場合、のどが渇いて、照準が狂うということはないかね。マクラスキー?」
「ありませんね。司令官。その先に敵さえおれば……。早く鳥の糞(爆弾)を当てて、帰ってアイスクリームでも呑もうと思うだけでね……」
Indomitable=“人のいうことをきかない”という評判のある、この爆撃隊長は、そう答えた。スプルアンスはうなずいた。彼は、新しく艦に積みこまれた、のどのかわかない薬、という新兵器の効果について考えているのであった。十日前まで、飛行機と搭乗員について、小学生程度の知識しか持ち合わせていなかった彼は、このようにして、即席の勉強をしているのであった。
搭乗員たちは、大砲屋や水雷屋から航空部隊の司令官に転任して来た司令官を、“ブラック・シュー・アドミラル(黒靴の提督)”と呼ぶ。パイロットはみな飛行靴をはいているが、大砲屋は、艦上で黒靴をはいているからである。
このとき、パイロットたちは、搭乗員待機室を出て行く司令官の後姿を見送った。彼らは、多かれ少なかれ、憐憫《れんびん》の情にかられていた。空母は、搭乗員を戦場に運ぶためにあるのであって、司令官の初度訓練をやるために走っているのではない。しかし、不思議なことに、提督は、茶色の飛行靴をはいていた。
スプルアンスより、四キロ北西方に占位したフレッチャーは、かなり暗い気持でいた。その理由は、スプルアンスの項で述べた通りである。彼が、日本の機動部隊接近を聞いたとき、すぐ考えたのは、レキシントンのことであった。レキシントンは、彼の双眼鏡の視野のなかで、珊瑚海に巨体を沈めたのである。しかし、仇討ちは容易ではなかった。早急な修理、そして、搭乗員の方も応急修理的な補給であった。現に、サラトガから移って来た若い少尉は、ヨークタウンは狭いので、着艦が難しい、などとボヤいている。
しかし艦橋では、老練なバックマスター艦長が、司令官の気持を察するかのように、拡声器で、与太をとばしていた。
「いいか、みんな。恐らく明日あたりは、この海面で、女の腐ったようなつねり合いが始まる。そこでJAPをやっつけたら、今度こそ、本当に、フリスコ(サンフランシスコ)でも、ロスでもいい。たっぷり本物の女と酒を味わってもらうぞ!」
艦内の各所では、喝采と笑声が湧いているはずであった。