六月四日の午後三時半、南雲の機動部隊は、ミッドウェーの北西三百五十マイル(六百五十キロ)の地点にあり、二十四ノットの高速で、ミッドウェーに接近しつつあった。
午後三時半は、現地時間で午後六時半であるから、すでに日没に近く、赤城の艦橋では、草鹿参謀長が、太陽が円《まる》い水平線の西端にタッチしかけて、その下辺が、手鏡の柄のように伸びて、水面に吸い着くのを、いつもながら、美しいものに認めていた。高度三千ぐらいに点々として浮いている断雲が、夕照に染まって、お祭りの綿菓子のように美しく、彼に幼年時代を回想させていた。
突如、赤城の右前方を走っている八戦隊の旗艦利根から、チカチカと発光信号のまたたきを送って来た。
「敵飛行機十機、二六〇度(西)方向……」
受信した赤城の艦橋では、
「長官、敵機らしいです。哨戒艇ですかな」
草鹿が双眼鏡を眼にあてたが、夕焼けのほかは何も見えなかった。
「ふむ、来たかな」
南雲は、双眼鏡を持ち上げたが、特に敵機を探そうとはしていなかった。飛行機のことは、飛行機屋にまかせる。水雷屋のわしは、艦《ふね》を、発艦する位置までもってゆけばそれでよい。あとは搭乗員にまかせるよりほかはない……。これが彼の方法論であった。
「戦闘機で追わせましょう」
草鹿は、十八サンチ大望遠鏡の方に歩みよりながら、艦長の青木泰次郎大佐と、飛行長の増田正吾中佐に眼くばせをした。待っていた増田は二段おきにラッタルをとび降りた。
「総員配置につけ! 対空戦闘!」
「発着配置につけ! 戦闘機当直員整列!」
けたたましいラッパの音に続いて、拡声器が下腹に響くような濁音で唸り始めた。
艦橋の下の搭乗員待機室では、戦闘機分隊長の白根斐夫《あやお》大尉が飛行服をつけて待機していた。真珠湾以来、二十機以上撃墜の名パイロットである。
「白根君、頼むよ」
「は、追いかけてみましょう。ちょっと遠いですが……」
白根は、いつもと同じく落ち着いた声で言い、うすく笑ってみせた。あまり表情に起伏のない男であった。小粒に並んだきれいな歯をしており、笑うと右の頬にえくぼが出来た。細面で、きめのこまかい、白い肌をしていた。
チリン、チリン、チリン……。
始業のベルのようにさわやかな音を立てながら、後部のリフトが動き始めた。翼端を折り曲げた零戦が、軽快な姿を飛行甲板に現わし始めた。甲板で待機中の直衛戦闘機は、すでに、ブルン、ブルンとエンジンを始動している。
「何機つれてゆくかね」
「三機でいいでしょう」
白根は、落下傘バンドのかけ金をかけながら、飛行甲板を、戦闘機の方に走り始めた。
赤城は、ちょうど風に向かっているので、三機の零戦はそのまま緊急発艦した。
敵機が現われたという西方に五分も上昇すると、彼は入道雲の谷間に、黒いゴマ粒がかなりのスピードで移動してゆくのを見つけた。太陽はもう、丸い水平線に下端を切らせている。大洋の夕景は壮大だった。白根はそのゴマ粒群を見つめた。これが敵機かという感じだった。戦争の実感が浮かんで来なかった。彼は責任感の強い男であったが、壮大な雲や水に囲まれて浮かんでいる自分の姿が、ひどく小さく感じられた。このまま天と地がひっくりかえっても、世の中は何も変わらないような気がした。彼は、ふと、このまま死んでもよいような気がした。昔の高僧は、このように美しい夕焼けの時に、彼岸に旅立つのか、という考えも、ちらと湧いた。それほど美しく見える西空に向かって、彼は飛行を続けた。ふりかえると、東の空は、青から黒にぼかされて、入道雲も灰黒色に重そうだった。その方向に、ミッドウェーがあるはずであった。
白根はバンクを振って、腕を伸ばして、敵機の方向を列機に教えると、ブーストを赤百まで入れた。背中が座席に押しつけられ、機速は二百五十ノットを越した。
黒いゴマ粒は、徐々に近より、小豆の粒ぐらいに見え始めた。雲の色も、上方から、灰色、そして、うすい紫色に変わり、下の海面も、波のかげは黒ずんで、夕焼けを反映している部分だけが紅紫色の縞をうねらせていた。
敵機は大型飛行艇らしく、高翼で胴体がずんぐりしていたが、それにしては高速を出しているらしく、なかなか距離はつまらなかった。
(この飛行機隊は、この朝発見した日本の輸送船団を攻撃するため、午後零時半、ミッドウェー基地を発進したB17隊であると想像されるが、米軍側には、この時刻に日本の空母群を発見したという記録はない。スウィーニー陸軍中佐のひきいるB17九機は、この日の午後一時半、二十六隻から成る日本の輸送船団を爆撃し、神通以下の護衛艦は、対空射撃を行い、B17隊は若干の至近弾をあるぜんちな丸その他の輸送船に与えた。しかしスウィーニー中佐は、その帰途、日本機動部隊の主力である四隻の空母を発見することは出来なかったのである)
太陽が水面下に落ち、小豆粒大の敵機は、それ以上大きくならぬうちに、紫色の雲の中に吸い込まれてしまった。
白根は母艦の方をふりかえった。夕陽を斜めに受けた母艦群は、弱々しいシルエットのように、おぼろだった。静止しているように見えた。彼はかすかな不安を感じながら、母艦の方に変針した。戦艦から発する発光信号が、チカチカと、白いいらだたしげな光芒を海面に投げた。——これが戦場か——ふとそんな気がした。母艦は徐々に近よって来た。赤城は標識灯を点じて飛行甲板の輪廓を海面に浮かばせていた。
三機は次々に着艦した。腕は確かだった。
「ふうむ、確かに敵機だったんだな」
待っていた草鹿は、緊張した顔で問い返した。
「は、間違いありません。大型機で十機近くいました」
「そうか」
草鹿は、南雲の方を向くと言った。
「長官、敵の哨戒艇らしいです」
「ふうむ……」
南雲は、少し眼尻の下がった顔をこちらに向けて、口をもぐもぐさせた。
「夜間空襲に来るかな?」
「来ても効果はないと思いますが……、水平爆撃なら……」
「外《ほか》の艦に、注意するように言わんでもええかな」
それを聞くと、草鹿は通信参謀と相談した。今朝、濃霧で位置を確かめるため、無線封止を破って電波を出した。しかし、今の飛行機がミッドウェーに帰って報告すれば、当然こちらの位置はわかってしまうのだった。
「超短波でやれば、遠くは届くまい。どのみち、明日は早朝から決戦だからな」
草鹿は、大きくつき出た腹をゆするようにした。戦いに勝てる自信があった。今まで負けたことがなかった。明日も、無敵の艦隊であることを確信していた。
間もなく、赤城の艦橋で、超短波の無線電話が、隊内向けの送話を始めた。
「相模《さがみ》太郎、相模太郎。コチラ義経、尾張町四丁目、尾張町四丁目(全機動部隊あて、赤城より、敵空襲に対し、警戒を厳にせよ)」
赤城の格納庫では、懐中電灯を手にした整備員が、あわただしく立ち働いていた。第一次攻撃隊発進は、明五日朝、日の出(午前二時)三十分前、すなわち、午前一時半(現地時間、六月四日午前四時半)で、ミッドウェー陸上攻撃隊百八機が発艦する。残機は、敵空母発見に備えて、対母艦兵装をして待機することになっていた。艦爆は、陸上攻撃のときは、二百五十キロの陸用爆弾(地上に落ちると同時に弾片が飛散する)で、艦船攻撃のときは、通常爆弾(信管を遅動させ、甲板を一乃至二枚突き破ってから艦内で爆発する)を用いる。艦攻は、陸上では、八百キロの陸用爆弾、艦船用には、九〇式航空魚雷を搭載することになっていた。
整備員や兵器具は、爆弾の装備や、魚雷諸元の調整で多忙を極めていた。飛行甲板でも、試運転の爆音が、夜気をふるわせていた。
月が遅く、甲板の上は暗かった。
赤城の飛行士の後藤仁一大尉は、飛竜の橋本たちと同じく、六十六期で、この四月、大尉に昇進したばかりであった。彼は艦橋の内側に張ってある大きな黒板に向かって、明朝の攻撃の搭乗割りを書き直していた。ハワイ以来、空中攻撃隊の総指揮官を勤めて来たベテランの淵田美津雄中佐が、出港して間もなく盲腸炎を発病して手術をしたため、攻撃に参加出来ないので、明朝の総指揮官は飛竜の艦攻隊長、友永大尉になるのであった。
艦攻操縦員の後藤は長身であった。踏台の上で、長い腕を伸ばしながら、黒い覆いをかけた懐中電灯で黒板を照らしていると、搭乗員室から三人の士官が現われた。顔を見なくても誰かはわかった。一番大きいのが、艦爆の分隊長で、ショッペイとあだ名のある山田昌平大尉、彼より少し低いのが、後藤より一期下で、艦攻分隊士の福田拓夫中尉、その間に挟まっている、ずんぐりと肥満しているのが、艦爆の隊長、千早猛彦大尉であった。
一番若い福田は、この作戦の始まる前、乗艦したので、先輩に質問することが多かった。
「このへんは意外と涼しいですね」
「うむ、日本は湿気が多いのだ。ハワイには六月でも梅雨はないからな」
「やあ、飛行士かね、御苦労さん」
「いやあ、明日の朝はお願いしますよ」
後藤も踏台から降りて、散策に加わった。赤城は艦爆隊を第一次攻撃に参加させるので、千早と山田が早番であった。
「艦攻の方がいいじゃねえか。出て来るぞ、空母が……。その時にゃ、魚雷でズドンとな、いただきだな」
巨漢の山田は、荒い口をきいた。兵学校では、ショッペイに殴られると、顔形があらたまるというので、筆者と同じクラスの四号は、脅威に感じていたのだが、運動神経は冴《さ》えており、霞ヶ浦航空隊では、操縦成績最優秀であった。
「敵の空母は出て来ますかね」
福田が尋ねると、
「当たり前さ。呉《くれ》では、レス(料亭)のエス(芸者)や、スコ(水交社)のメイド(女中)が、今度はハワイを取ったら、ヤシの実をみやげに頼む、なんて言ってるんだ。司令部が呑んで気焔をあげたんだろうが、少し敵をなめすぎとりゃあせんかな」
千早がむっとした調子で、そう答えた。
「まったく、今日は、二度も無電を打つしな……」
山田が、とてつもなく大きな声を出した。
「あれもおかしい。ミストで僚艦が見えなくなったからって、そう心配することはないんだ。晴れて飛び上がれば、見えるんだ。ミストのなかで散開して接触する方が、奇襲にはいいんだ。敵の索敵を助けるようなもんだよ。敵は電探を持っている。朝の電波を受信して、午後、確かめに来た。明日は来るぞ。きっと来る……」
千早が言うと、
「大体、水雷屋は何もわからんのだ。うちの長官は、馬鹿だよ」
山田が大きな声で言った。
「おい、聞こえるぞ」
「馬鹿だから、馬鹿だと言ったんですよ。参謀長も、航空参謀もいるのに、何をしているんだろ」
山田はやはり大きな声で言いながら、艦橋を見上げた。福田が訊いた。
「ミッドウェーをとって、どうするんですか」
「果たして使いものになるかどうか。あとの補給と索敵が問題だな。東京から二千二百マイル以上あるんだからな」
「島をとるよりも、とるとみせかけて、敵の艦隊を誘い出して叩くのが目的だろう」
「しかし、ミッドウェー郵便局の局長も乗艦しているし、基地の司令官も決まっている。水無月島のほか松岬、竹岬などという名前も地図に書き込んであるらしいぜ」
そのとき、闇のなかで、
「おい」
と呼ぶ声がした。太い声は近づいて来た。
「山田大尉だな、でかい声を出していたのは……」
「あ、隊長ですか」
声の主は、いつも飛行靴をはいているので、ブーツとあだ名されている、奇行と毒舌の持ち主、艦攻隊長の村田少佐であった。彼は第二次攻撃隊の指揮官に予定されていた。
「おい、あまりでかい声で悪口を言うなよ」
村田は、今まで、一緒に歩いていた右舷の男の方に、あごをしゃくった。
「あ、あんな所に長官がいたんですか」
山田は少々あわてた。
「そうなんだ。散歩に降りて来られて、搭乗員の調子を訊きに来られたんだ。そこへ、君が大きな声で、馬鹿だよ、なんて言うもんだから……」
「聞こえましたかね」
「聞こえたさ。別に怒った様子もなかったが……。若い士官は正直なもんですから……と言ったら、いや、搭乗員の言うことが本当じゃ。おれは馬鹿かも知れん、と言っておられたぞ」
「ふうん、長官も、わりにいいところがあるんですね」
「自分で馬鹿とわかっていりゃあ、相当なもんかも知れませんね」
士官たちの饒舌は続いた。
後藤は搭乗割りの変わった点を村田隊長に報告した。明朝、彼が行く筈になっていた索敵機を中根飛曹長に替えたことを告げた。索敵に出て遅くなると、第二次の母艦攻撃に出られなくなるおそれがあった。
「そうか、中根はおこるかも知れんが、まだまだチャンスは大ありさ」
村田は愉快そうに笑った。