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ミッドウェー戦記09

时间: 2019-07-30    进入日语论坛
核心提示:八 六月五日、ミッドウェー海戦は、黎明と共に、開幕を迎えつつあった。 機動部隊は、ミッドウェーの北西二百十マイル(三百九
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 六月五日、ミッドウェー海戦は、黎明と共に、開幕を迎えつつあった。
 機動部隊は、ミッドウェーの北西二百十マイル(三百九十キロ)の位置にあり、速力二十四ノットで南東に進んでいた。風は、南東の風三メートルで、風力は弱かったが、風向は発艦に好都合であった。
 機動部隊主力は、航空決戦に備えるため、第一警戒航行序列をとっていた。すなわち、前衛として、十戦隊の旗艦長良《ながら》を中心に、八戦隊の利根、筑摩を両側に配し、その後方に右側一航戦赤城、加賀、左側二航戦、飛竜、蒼竜とし、その後方に、三戦隊の榛名、霧島を配した。各空母の間隔は、約二千メートルである。
 〇〇三〇《マルマルサンマル》(午前零時半)、各艦で総員起こしのラッパが鳴った。このときの位置は、東経百八十度の日付変更線まで三十マイル(五十五キロ)ほどで、ミッドウェーのアメリカ時間では、六月四日午前三時半、夜明けを迎える頃であった。
 早く眼ざめたジョン・フォードは宿舎の外に出ると、顔も洗わずにサンドイッチをかじりながら、まず、東の空を仰いで朝焼けを確かめると、ゆっくり、自分が撮影カメラを据えた水上機格納庫の方に歩みよった。JAPの輸送船や巡洋艦の位置はわかっていたが、空母の位置はまだわかっていなかった。——しかし、来るだろう、ニミッツはおれに、すばらしい実戦のフィルムを撮るチャンスを与えよう、と約束してくれたんだ——フォードは、まだ暗い西の空を眺めながら、サンドイッチの固いハムを噛んだ。
 
 日本空母の各艦では、整備員や兵器員が、眼を赤く充血したまま、格納庫で、総員起こしのラッパを聞いた。ほとんどが徹夜であった。
 そして、徹夜で眼を赤くしている整備員は、ほかの艦にもいた。
 赤城の右前方に位置した重巡利根の後甲板では、カタパルトの近くで、飛行長武田大尉が、いらいらしながら、整備員を督促していた。作戦命令によれば、七機の索敵機の発進は、〇一三〇《マルヒトサンマル》(午前一時半)であり、利根の四号機と筑摩の一号機は、もっとも敵空母の出現する可能性の多い、ミッドウェー島北東海面を三百マイル前進して索敵することになっていた。ところが、カタパルトの故障で、射出がかなり遅れた。艦橋では八戦隊司令官阿部弘毅少将、利根艦長の岡田為次大佐がじりじりしていた。先任参謀の土井美二《よしじ》中佐は、一つの危惧と共に、司令部の表情を見守っていた。(これからの土井参謀の見解は、最近初めて筆者に洩らされたものである)カタパルトの故障によって、利根四号機の発艦は三十分遅れて、午前二時となった。このため、偶然にも怪我の功名で米機動部隊を発見することになったのであるが、問題は、利根四号機のコンパスである。
 土井中佐は、出撃の直前、利根に着任したのであるが、その頃、利根に積んでいた索敵用の零式水偵五機のうち、四号機が、脚の支柱をいためて、呉に近い広工廠《ひろこうしよう》に修理に出してあった。そのため、同機は偏差、自差の修正がおくれ、右へ約十度の誤差があったに違いない、という。これは、海戦後、阿部少将に代わって、原忠一少将が着任したとき、念のため、四号機の誤差を計測した結果判明したものである。
 ミッドウェーの勝敗を決したのは、運命の五分間といわれるが、筆者の見解は違う。実際は、利根四号機の右へ十度偏した誤差のためであるが、それについては、その時点で付図によってくわしく説明しよう。
 午前一時半、筑摩一号機とほぼ同じ時刻に、上空警戒の直衛戦闘機、各空母十機、対潜警戒機が戦艦、巡洋艦から発進し、同時にミッドウェー陸上攻撃の第一次攻撃隊も発進を命ぜられた。
 発艦した友永丈市大尉は、飛竜の上で大きく旋回して、部下の機が編隊を組むのを待っていた。飛竜の艦攻は六機ずつ三個中隊に編成され、友永機は、第一中隊長機を兼ねていた。
 陽はまだ上がっておらず、空は東半分がかなり明るく、西半分にかけて、ぼかしたように黒ずみ、西の水平線はまだ暗黒のうちにあった。海面には艦隊が蹴立てる波頭の外には大きな波も見えず、ただ蒼黒く重々しいうねりだけが、大きく呼吸する巨人の胸のように、のたりのたりと機動部隊全体を、一様にもち上げ、ゆりおろしていた。
 友永の後席には、偵察員の橋本敏男大尉が、機の腹の下に眼玉をつき出している、ボイコー照準器をのぞいて、海面の波で偏流を計り、航法図板の発艦時の母艦の位置を、懐中電灯で照らしてみたりしていた。
「蒼竜の編隊、右後方に見えます」
 後の電信席に乗った福田兵曹が伝声管で報告した。橋本は伝声管を切りかえて、それを友永に伝えた。
「おうい」
 太い声がそれに答えると、
「発光で呼べ」
 機は軽く、右に旋回した。橋本はピカピカと光るオルジス信号灯を開閉した。蒼竜艦攻隊長の阿部平次郎大尉の一番機が応答した。蒼竜の艦攻十八機が近よって来た。上には、飛竜、蒼竜の零戦十八機が直掩の位置についていた。飛竜の戦闘機は重松がひきいていた。
「一航戦の編隊、左後方……」
 福田がまた報告した。機は南に向いていた。
「おうい」
 友永は、機を左に大きくひねると、
「攻撃針路に入る……」
 針路を百四十度(南東)にセットさせた。高度は千メートルに上がっていた。友永の中隊の二小隊三番機が、この時、エンジンの不調で母艦に引き返した。百八機の攻撃隊は百七機となって、飛竜の直上を通過してミッドウェーに向かった。母艦は周囲の標識灯で艦型を浮かばせ、時々明滅する照明灯の光がイルミネーションのように美しかった。これから戦場に向かうという感じはなかった。友永は、この美しさ……戦争というものは、美しいものだ、ということを、よし江と丈一郎に見せてやりたい、と考えた。
 間もなく、太陽が水平線上に姿を現わした。ふり返ると母艦の上空附近には、高度三千メートルぐらいに、大きな断雲が一面に浮いて、雲量八ぐらいであったが、太陽が完全に水平線をはなれて、列機の顔がはっきりわかるころになると、徐々に雲が減って、ミッドウェー西方の環礁を通過する頃には、ほとんど快晴に近くなっていた。太陽に向かって進むのがまぶしいので、友永は色のついた飛行眼鏡を、額から眼の上におろした。
 友永は気持が鬱屈していた。ひと息つくとよし江と丈一郎のことが、また頭のなかを占領し始めた。よし江は、九州の宇佐に近い町に住む芸者であった。友永が支那戦線から帰って、宇佐航空隊の教官をしているときに知り合ったのである。
 元来、友永は女遊びの好きな方ではなかった。支那の前線から帰って来ると、内地の料亭で遊び呆けている同僚の姿が気に入らなくて、イモを掘った(暴れて物をこわす)のである。それをなだめたのが、よし江であった。博多の生まれで、馬賊芸者で男ぎらいとして通っていたが、その夜、友永は介抱してくれたよし江によって、生まれて初めて女の情というものを知った。二人は逢瀬を重ね、よし江は妊娠した。その後、友永は、霞ヶ浦航空隊教官に転勤になった。昭和十六年五月、開戦前夜である。(この頃、筆者は、霞ヶ浦航空隊の学生であった。友永大尉は、通称トモさん、汚れのトモさんと呼ばれ、また、土方のトモさんとも呼ばれた。その頃、霞ヶ浦では、敵襲に備え、飛行機をかくす掩体壕というものを造っていた。指揮官のトモさんは、ねじり鉢巻で、腰に汚れた手拭いをさげ、地下足袋をはいて出て来て、兵の真っ先に立って、よいしょ、よいしょ、と土嚢をかついだ。その恰好が土方の親分に似ていたので、親分とも呼ばれた)
 中肉中背、野性的で、精悍な雰囲気を体にまとい、無骨ではあったが、実直で、打算や、えこひいきがないので、部下からは、愛された。そのトモさんにも、悩みはあった。
 内地を出撃する前、トモさんは、別府で、よし江と会った。生後六カ月の丈一郎を抱いていた。ほっぺたをつつくと、無邪気に笑った。
「あなた、無事で帰って来て……」
 馬賊芸者も、心の優しい一人の母親になっていた。
「うむ……」
 うなずいたが、トモさんには、自信がなかった。トモさんは、平素、部下に言っていた。
「生に執着するな。死ぬべき時には潔く死を選べ、それがサムライというものだ」
 トモさんは、大分中学の出身であったが、葉隠精神の信奉者であった。
 発艦して一時間以上すぎた頃、友永は訊いた。
「おうい、飛行士、あと何マイルだ」
「七十マイルです」
 友永は、柄にもなく冗談が言ってみたくなって来た。
「おい、右下に白い筋が見えるだろう、あれは、日付変更線じゃないか」
 橋本は、釣られて、体をのり出し、下を見た。白い水尾《みお》が一筋、南北に長く走っていた。船の通った航跡かも知れなかった。
「違います、日付変更線は、もうとっくに越えました」
 まじめくさって答えてから、橋本はにやりとした。うわついていた腰がどしりと座席の上に落ち着いた感じであった。
「もう、そろそろ、お客さんが見える頃だぞ。敵戦闘機に気をつけろ。高度を上げる——」
 艦攻隊の高度が三千に上がった。後方にいた艦爆隊もぐんぐん高度をあげて四千まで上がった。
 その頃、早朝ミッドウェーから発進したアディ大尉のカタリナPBY哨戒艇は、ミッドウェーから、北西百八十マイルの地点で、断雲の下から、ふいに大きなスリッパーが現われるのを見た。
「スリッパーが走っている。しかも二隻だ」
 彼は電信員のマコーミック兵曹をつついた。マコーミックは、直ぐにキイを叩いた。
「敵空母二隻および、戦艦一群、速力二十五、ミッドウェーの北西、百八十マイル、針路百三十五度」
 時に、六月五日、午前二時三十四分であった。
 無電は直ちに、ミッドウェー基地と、機動部隊で受信された。
 スプルアンスは参謀長のマイルズ・ブロウニング大佐と相談した。大佐は答えた。
「敵までの距離は、まだ遠い。わが軍の戦闘機は脚(航続距離)が短い。雷撃機も旧式だ。もっと、敵に肉薄してから発艦すべきです」
 スプルアンスはうなずいた。発艦以前に敵が来たら……という危惧が、彼の背筋を冷たくしていた。しかし、攻撃を終わって帰投した部下が、燃料不足のため、水中に溺れるのを見たくはなかった。——これはナグモに対する一つの賭けだ——と彼は考えた。
 それとほぼ同じ頃、米軍のカタリナ哨戒艇は、おびただしい飛行機の大群が東へ向かっているのを発見した。機長は、ミッドウェー基地に向かって発信した。
「敵機多数貴方に向かう。敵は、爆弾を抱いている。警戒せよ」
 サンド島にいたジョン・フォードの耳にも、その通知は入った。
「本当の戦争を撮るんだ。本当のな……」
 彼は、助手のウイリーにそう言い聞かせると、ゆっくりと梯子を踏みしめて、水上機格納庫の屋根に登った。
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