午前二時四十五分、右前方にミッドウェーの環礁が、二つのオハジキ玉のように見え始めた。
右の方にあるのがイースタン島で、三本の滑走路があり、B17やダグラス爆撃機、アベンジャー雷撃機などがこちらにたむろしていた。
左側のサンド島には、カタリナ哨戒艇の水上機基地があり、燃料タンクもこちらにあった。
攻撃目標はあらかじめ、分担が決まっていた。飛竜の艦攻と、加賀の艦爆が、サンド島の格納庫、航空施設、地上機。赤城の艦攻と蒼竜の艦爆が、イースタン島の滑走路、航空施設、地上機を爆破することになっていた。
橋本は、友永の後席から、近づいて来るミッドウェーの環礁を見おろしていた。真珠湾攻撃のとき、彼は飛竜水平爆撃隊の一員として参加したが、この時は、初めてのせいか、こわいという幼い気持があった。しかし、今回は、わりにのんびりした気持であった。
環礁の外壁は珊瑚礁から成り立っており、新しい珊瑚礁は美しかった。ゆるやかに波に洗われ、海水を透して、黄色や緑色に朝の陽光を照りかえし、おとぎ噺の夢の島のように美しかった。平和に見えた。
環礁の内側の入り江は、ちりめんの上に青ガラス玉をおいたように凪《な》いでいた。環礁の前端が右下方に見えたとき、橋本は不気味な静寂を感じた。彼は、静寂と共に、圧迫感を感じて、後方をふり仰いだ。青空に六つ、大きなゴマ粒が点々と浮かび、こちらに迫って来るところであった。
「隊長! 敵戦闘機六機、後上方!」
橋本は、けたたましく伝声管に唾をとばした。
友永は、大きくバンクして敵機襲来を列機に知らせた。橋本は、霞ヶ浦の飛行学生のとき、入佐俊家中佐から教わった戦訓を想い出した。入佐は中支の渡洋爆撃を初めとして、四十数回という爆撃行の経歴を持つ陸攻のオーソリティであった。
「攻撃機は、敵戦闘機の来襲にあったら、緊密な編隊を組め。そして、機銃で弾幕を張るんだ」
橋本は入佐のその教えに忠実に戦ってみようと考えた。彼は両手を左右に出して、「近よれ」と列機に合図した後、右掌で、後上方を指した。第一小隊の二機はぐっと友永機に近よって来た。しかし、少しはなれた二小隊の二機は、敵のグラマンに気づいていなかった。
上空にいたゴマ粒は虻《あぶ》ぐらいの大きさになり、黒い翼端が朝陽を鈍く反射すると、まっしぐらに突っ込んで来た。ジョン・カレー海兵大尉が指揮するF4Fグラマン・ワイルドキャット三機であった。カレーは日本機を見つけると真っ先に上昇してきた。性能の悪いブルースター・バッファローは遅れた。グラマンは、真正面から見ると、翼の前端とエンジンしか見えないので、灰色の団子を黒色の太い棒で突き刺したように見えた。団子が見る間にふくれ上がり、盆ぐらいの大きさになった。
橋本の後席では、福田の機銃が火を吐き、震動が尻から伝わって来た。橋本は力一杯伝声管に怒鳴った。
「隊長! 左旋回!」
「おうい」
友永は大きく操縦を左に倒し、左足を一杯伸ばして、フットバー(足踏)を蹴った。機はほとんど垂直に左に傾斜し、翼の下のミッドウェーが、右に流れた。
カレー大尉は発射用の把手を握り、グラマンの両翼に装備されている十三ミリ機銃が太い火を吐いた。無数のアイスキャンデーが、みな束になって、橋本の顔に向かって飛んで来た。飛行眼鏡をつけた面長な赤い顔がチラと見えた。敵も緊張していた。
カレーは、編隊一番機のガソリンタンクに、十三ミリが命中したのを確かめると、右下に避退した。そのうしろから、重松の零戦がぴたりとつけた。二十ミリが火を吐き、カレー大尉は、両脚に銃弾を受け、不時着のため降下した。
カレーの二番機、キャンフィールド中尉は二小隊二番機を狙った。牧村一飛の機は少し遅れていたのだ。キャンフィールドの射撃は確かで、牧村機は両側のガソリンタンクを射たれ、火を噴いた。キャンフィールドは、機をひねって降下しながら、燃えている牧村機を見た。若い操縦員が、熱そうな表情で左手を前にかざすのが認められた。——そんなに熱いものかな、ガソリンの焔というのは——そう考えながら降下したキャンフィールドは、下から急上昇して来る重松の零戦に出くわした。重松の二十ミリの方が発火が早く、キャンフィールド機は、補助翼とフラップをふきとばされ、操縦不能に陥った。降下しながらキャンフィールドが、ふり返ってみると、多くの機が火焔や白い煙を吐きながら落下しつつあった。大部分は旧式のブルースター・バッファローであった。
地上の格納庫の屋上では、ジョン・フォードが、熱心にカメラを回していた。飛行機の動きが早いので、望遠で狙うのには骨が折れた。グラマンやバッファローが落ちるたびに、フォードは唾をはいた。
「ガッデム! 戦闘機乗りになるべきだった。映画屋なんて、最低だ!」
「おい、ガソリンタンクをやられた。右か左か見てみろ」
友永の太い声で、橋本は我に返った。右側を飛んでいる松下兵曹の機が見えなかった。百メートルぐらいおくれていた。
「右です、隊長」
「おうい」
友永は、燃料タンクのコックを右に切り換えた。やられたタンクで、飛べるだけ飛んで、左に切り換えるのが常道であった。
松下の機は高度が下がっていた。操縦員の松下は、がばっというように前にのめり、偵察員の木口兵曹が座席に立ち上がって、黒板を振っていた。「バンザイ」と書いてあった。黒い虻がとびつき、松下の機は火焔に包まれた。すると、その虻も反転すると同時に火を吐き、近くを零戦が駆け抜けた。重松かな? と考えていると、赤い火を吐いたグラマンから、白いものがとび出した。パラシュートだった。ハーバート・メリル大尉は、パラシュートがひらいてからも心配だった。日本軍は、パラシュートを射つのではないか、と気遣っていたが、無事に水面に着いた。その頃、松下兵曹の機は、錐揉《きりも》みになって、海面に白い飛沫をあげた。
上から見ていた橋本は考えた。松下機の後席には、木口が入っている。日本の搭乗員は、なぜ、パラシュートでとび出すことをしないのだろう……。そして、自分も、トモさんが射たれたら、一緒に落ちてゆくだろう、と考えていた。
橋本は、はげしい渇きを感じていた。彼の中隊は、初め六機だったが、事故で一機帰り、今の敵襲で二機喰われたので、三番機の武信と、二小隊一番機で、水平爆撃特練のマークを持つ内村を合わせた三機になってしまったのである。橋本が、松下機の残した海面の泡にラムネを想像していると、内村機が近より、手を振って合図をした。彼は今から水平爆撃の誘導をするので、偏流測定のため、しばらく、編隊から離れなければならない。
「隊長、二小隊一番機、偏流測定に出ます」
「おうい、戦闘機に喰われんように気いつけろよ」
反射的に上を見ると、虻が五機つっこんで来るところであった。
パークス海兵少佐のひきいるブルースター・バッファローで、これはずんぐりとして、まことに形が悪く、虻というよりは、芋虫に似ていた。
「隊長、つっこんで来ます、右旋回!」
「おうい」
機は大きく右に傾いた。
「飛行士、仰角が利かないので機銃が射てません」
後席の福田が言った。
「射てる奴だけ射て! こちらの尾翼を射つな!」
福田の機銃が火を吐いた。五機のバッファローは、出ばなをかわされて、三機と二機に分れて、二中隊と三中隊に向かって行った。上昇して来た重松の戦闘機隊がその後にとりついた。零戦の二十ミリが一斉に発射され、三機の小隊長であったアーミステッド大尉は、操縦装置を破壊され、操縦不能に陥った。いま一機のバッファローも火を吐いた。
しかし、こちらも、二中隊の一機が燃料タンクから火を吐いて急降下し、三中隊の一番機も操縦員をやられたらしく、ふらつき始めた。さらにその後方からも、形の悪いバッファローが数機現われた。混戦であった。後方の一航戦でも、赤城の千早や、山田昌平の隊が黒い豆粒にとりつかれて苦戦していた。爆弾を投下する前の水平爆撃隊の苦悶は、陣痛に似ていた。
友永の中隊は、すでに、目ざすサンド島の格納庫の近くに来ているのに、特練の内村はまだ帰って来なかった。
「おうい、飛行士、内村飛曹長は、まだか」
バッファローの空襲を避けるため、急旋回を続けながら、友永が問うた。
「はあ、まだです」
「飛行士、君、照準をやれ」
「はあ?」
伝声管を前にして、橋本は当惑した。階級は大尉でも、飛行学生を出て日が浅いので、編隊を誘導して八百キロ爆弾を命中させる自信はなかった。
「隊長、やはり、特練を使いましょう」
「そうか」
友永は少しまのびした声で言った。
零戦の活躍で、バッファローの数が減り、その代わりに、高角砲の弾片が、附近に、ぽかり、ぽかりと白い煙の輪を拡げ始めた。
地上では、ジョン・フォードが、けんめいにカメラを回して、空戦の様子を撮影し、間もなく落ちて来るであろう爆弾を、心待ちにしていた。
三中隊の一番機、角野大尉機が近づいて来た。ふらついていた。中間席の偵察員、小林正松一飛曹が、手だけの手旗で信号した。操縦員の角野大尉が足首を射たれたので、自爆をする、というのである。操縦席に角野の大きな頭が見えた。眼を半眼につむっていた。角野博治は、山田昌平や、飛竜機関科の梶島と同じく、六十五期生であった。肩幅が広く、相撲と銃剣術の猛者《もさ》であった。しかし、彼がもっとも有名なのは、頭が大きく、特一号という帽子をかぶるためであった。いま、彼は、高角砲の弾片で、右足首を砕かれ、かなりの出血があった。操縦席内で血のしぶきが飛び散り、風防の内側が赤く染まっていた。大きな頭が、ゆらり、ゆらりと揺れていた。
橋本は、その旨を友永に伝えた。
「いかん、爆弾を落とすまで待てと言え!」
友永はそう命じた。
橋本はその通り、手旗で信号した。角野はあいまいにうなずき、ふらふらしながら後退した。