その頃、飛竜の北東百八十マイルの海面では、一人の提督が苦悶していた。
ヨークタウンのフレッチャー少将は、攻撃隊をいつ発艦させるべきかで迷っていた。フレッチャーの任務は、後詰めである。日本空母四隻のうち、発見された二隻をスプルアンスに任せ、自分は、艦爆十七、雷撃機十三を抱えて、次の空母の発見されるのを待っていた。フレッチャーは、スプルアンス隊が午前四時に発艦を開始したものと信じていた。しかし、五時を過ぎても、何の情報も入らなかった。敵がそう遠くにいるとは考えられなかった。フレッチャーは、ナグモの奇襲を恐れていた。日本の航空部隊のお手並は、珊瑚海で十分経験ずみであった。——あのときは、鯨のようなレキシントンに殺到してくれたので、こちらは手傷だけで助かったが、今度、先手をとられたら、助かる見込みはない——と彼は考えていた。バックマスター艦長、飛行長のマー・アーノルド中佐と相談した結果、午前五時すぎ、フレッチャーは、攻撃隊発進を決意した。五時四十分、レム・マッセー少佐のひきいる第三雷撃中隊のデバステーター十二機に引き続いて、マックスウェル・レスリー少佐の第三爆撃中隊、ドーントレス十七機が発艦して、南西へ向かった。
世の中には不思議なことがあるもので、日本にもあとの烏が先になる、という諺《ことわざ》がある。
エンタープライズを午前四時六分に発艦したマクラスキーは、三十三機をひきいて、哨戒艇の情報通り、ミッドウェーの北西百二十マイルに接近しているはずのナグモ部隊を探したが、いっこうに見つからなかった。そして、その間に、彼より一時間も遅く発艦したホーネットのウォルドロン隊が、まず攻撃を行い、ついで、エンタープライズの、ゲン・リンゼーの雷撃機隊が、そして、彼より一時間半も遅れて発艦したヨークタウンのレム・マッセー雷撃隊までが、攻撃を行ってしまったのである。
まず、ウォルドロンである。彼は、人の言うことをきかない点では、マクラスキー以上であった。エンタープライズのリンゼー雷撃隊は、司令部から指示されたとおり、南西に飛んだが、ウォルドロンは、黙って、針路を西南西にとった。これはいわゆるアパッチのカンによるものであった。彼は西の方がキナくさいと思った。ナグモが勇敢な提督なら北上しているはずである。まず、西を探し、それから南下して、ミッドウェーに向かっても遅くはないと考えていた。なにしろ、愛機はオンボロのデバステーターであった。早く敵を発見しないと、エンコしてしまう可能性があった。ジョージ・ゲイ少尉は、艦橋の指示よりは、少し針路が違うな、と感じながら、「おれについて来い」というアパッチ出身の隊長について行った。そして、ウォルドロンのカンは正しかった。
午前六時二十分、低空を飛んでいたウォルドロンは、水平線に三隻の空母を発見した。ウォルドロンは直ちに「突撃隊形作レ」と下令し、隊を二隊に分け、高度五百メートルで、もっとも南にいた空母、すなわち蒼竜に向かって突撃した。ウォルドロン隊十五機は、輪型陣の駆逐艦の猛烈な対空砲火をおかして肉薄したが、空母の直衛機に捕捉された。蒼竜直衛隊を指揮する藤田は、部下九機をひきいて、このよぼよぼした雷撃隊に殴り込んだ。零戦とデバステーターでは、時速百キロ近い速力差があった。
藤田は苦もなく後方の一機にとりつくと、これも撃墜した。そこここで、デバステーターが火を吐き、海面に波紋をあげた。蒼竜からの対空砲火も熾烈だった。雷撃隊は、見る間に、十五機から五機に減ってしまった。藤田は続いて、先頭を、勇ましく、しかし、のろのろと母艦に向かうデバステーター機のうしろにとりついた。
「隊長、ゼロです!」
偵察員が絶叫した。射点にはまだ遠かったが、ウォルドロンは、急いで、魚雷の投下索を引いた。魚雷が機体をはなれると同時に、藤田の二十ミリ弾が、燃料タンクのなかで炸裂し、デバステーターは焔に包まれた。ウォルドロンは、焔のなかに立ち上がり、脱出しようともがいた。——畜生、黄色いJAPまでが、このアパッチ様を痛めようというのかい——呻くように叫ぶ声が、後続のジョージ・ゲイ少尉の電話に聞きとれた。しかし、ウォルドロンは、背中に二十ミリ弾を喰っていた。腰の山刀を抜いて、落下傘の紐を切り、機外に脱出しようとした、三十四歳のアパッチ系のアメリカ人は、燃えさかる焔の一塊と化した機と共に、海中に激突し、最期をとげた。見ていたジョージ・ゲイは、自分も血が騒ぐのを覚えた。
デバステーターは三機に減っていた。ウォルドロンが発射した魚雷は蒼竜の柳本柳作《りゆうさく》艦長に回避されて、射点が後落していた。三機が魚雷を発射した直後に、二機が撃墜された。魚雷発射後、ゲイ機は、蒼竜の甲板上をすれすれに通過したが、ついに、零戦につかまり、撃墜された。ゲイは足に負傷をしたが、着水した機から這い出して水に浮いた。操縦員も、機銃員も射殺され、偵察員の彼だけが生き残った。そして、これが、ホーネットの第八雷撃中隊唯一の生存者であった。ウォルドロンの雷撃中隊は、十五機全機が撃墜され、一発の命中魚雷も得られず、そして、唯一人の生存者は海面に在った。
しかし、運命の神は皮肉である。神は、日本の零戦パイロットをも、一人、海の上におきざりにし給うた。それは蒼竜の藤田怡与蔵である。最後の機を撃墜したとき、彼は、自分のエンジンが白煙を吐くのを認めた。附近に敵影はない。なんのことはない、味方母艦の機銃に射撃されたのであった。
——ちえっ、味方の機銃か——藤田は濃い髭をひとなですると、一杯上げ舵をとり、高度八十から三百まで上昇した。スティックをひねり、機を背面にすると、頭の下に来た風防を開き、腰の落下傘バンドを確かめ、両足を座席の前縁にかけると、よいしょとばかりに機外にとび出した。機は失速に入って、彼と一緒に落ちて来る。——こいつはうまくない——彼は、足で、ぐいと機の胴体を蹴った。機は彼から七メートルばかり離れて錐揉みに入った。藤田の頭上でぽかりと落下傘がひらいた。彼はほっとして下を見た。まだ百五十くらい高度があった。彼は、自分を撃墜した蒼竜の機銃群がまだ火を吐いているのを、複雑な気持で眺めた。加賀に雷撃隊が群がり、次次に零戦に墜《お》とされて行った。先ほどまで彼が乗っていた零戦が、飛沫をあげて海に落ちた。その波紋から二十メートルとはなれぬところに、彼も着水した。カボック(救命胴衣)をつけていたので、ぷかりと水に浮いた。駆逐艦が五百メートルほど前方を通ったが、誰も彼に注意してくれなかった。——朝から働いて、その揚句がこのざまか——そう思ったが、別に肚も立たなかった。元来、気楽な性分であった——こんな大きな戦争で、おれ一人の命なんか、問題にはならないんだ。助かるものなら助かるだろう——そう考えているうちに、空腹を感じ、それもあきらめ、そして、海面に浮きながら眠り込んでしまった。