赤城の受けた致命傷は中部リフトに落ちた一弾であった。リフトはめくれ上がって、帆のように直立し、附近の整備員は羽虫のようにはねとばされ、ちょうど発艦しつつあった直衛戦闘機が、艦首附近で逆立ちし、かたわらに、胴と腕のない死体がころがっていた。整備員の一人は、首と胴が十メートルくらいはなれた所に落ちていた。破孔の周囲からめらめらと悪魔の舌のような焔が見え始めた。不吉な予感のある焔だった。
「やった、ついにやった!」
山田が赤く焦げた顔を歪《ゆが》めながらそう言った。笑っているようにも見えた。後藤は他の艦を見た。加賀が早くも、赤い火の柱と、どすぐろい煙をあげていた。蒼竜も三発の直撃弾を受けて、約五百の人命と、準備中の飛行機の大部分を失い、大火災を生じた。機動部隊に致命傷を与えたのは、エンタープライズ三十機、ヨークタウン十三機、計四十三機が投弾したうち、赤城二発、加賀四発、蒼竜三発、計九発の命中弾であった。このときの命中率は、二十一パーセント弱で、当時の日本の艦爆隊の平均命中率六十八パーセントにくらべると、三分の一に足りないのであるが、よく、機動部隊の死活を制することが出来たのである。
——えらいことになったものだ——後藤は茫然とその光景——もくもくと立ち上る黒煙や火焔や、懸崖の菊花のように海上にはみ出す白煙や、去勢されたように元気のない母艦の姿——などを眺めながら、口の中で、同じことを呟き続けた。
——運命は、突発する——ふとそんな警句を、どこかで聞いたことがあるような気がしていた。そして、いや、異常な現実というものは、突発するように見えるものだ、日本の母艦が火焔に包まれるなどということは、想像も出来なかったことだ。しかし、いま、燃え出してみると、それはどうにもならない現実なのだ。そう考えている後藤の意識のなかに、若い福田中尉の姿が浮かび上がって来た。彼はリフトのあたりを見た。ちょうど後部リフトの附近で、戦闘機を発艦させていた福田は、爆風ではねとばされて、影も形もなかった。——あの男もやられてしまった——彼は、福田の丸い鼻や、ふっくりした頬や、人なつっこい眼や、少しどもるようにしてしゃべる彼の癖などを思い浮かべた。後藤が、発艦の旗ふりを、福田と代わろうとしたのは、ほんの少し前のことであった。福田は、「まだよいです」と言って、自分が旗ふりを続けたのである。
もし、あの時、おれが福田に代わっていたらどうだったろう——後藤は背筋が冷たくなるのを覚えた。黒い淵の底を見せつけられた感じであった。——今頃は、福田がここに立っていて、俺は、どこに行っているのだろう——彼は首と胴がばらばらになって、海面に漂っている自分の姿を想像してみた。そして、福田がここに立って、後藤大尉は、一体どこへ行ってしまったんだろう? と首をかしげている。——ひどい話だ。しかし、おれが福田に代わっていれば、爆弾は後部リフトではなく艦橋に命中して、おれは後部リフトのへんに立っていたかも知れない。すると、おれが今、両脚でここに立っているのは、現実ではなくて、一つの運命なのかも知れない。
後藤が運命ということばにこだわっている間に、破孔が、ばふーっ! と大きな火焔をふいた。航空ガソリンが、気化して爆発したのだ。ガソリンのほかに、爆弾や魚雷を満載した空母は、ライターよりも燃え易い状態にあった。
——とに角、この火を消さなくちゃ……。みな泥人形のように、眼ばかり大きくしていたって、仕方がないじゃないか——。
後藤はそう考えたが、防火ということになると、飛行服姿の彼には、急にはよい考えも思い浮かんで来なかった。彼は、格納庫のなかで、燃えているはずの、自分の乗機のことをちらと思い浮かべた。誘爆によって、火焔を増しつつある赤城の飛行甲板で、落下傘のバンドをはずしつつ、後藤は搭乗員の無力を感じた。
甲板士官の芝山中尉は、赤城左舷第一中甲板の中部応急指揮所にいた。すぐ前にガンルーム、士官室、機関科事務室があり、うしろには士官浴室、病室があり、その後部は、第三段格納庫になっていた。
第一中甲板のデッキは、いわゆる防禦甲板で、厚さ四十ミリの装甲鈑が張ってあった。頭の上は、第二段格納庫で、その上は第一段格納庫、そして、その上に艦橋があった。ハワイでも、印度洋でも、爆弾や魚雷が命中したことはないので、防火、防水の応急指揮官は呑気な配置であった。このときも、艦橋に近い応急総指揮所からは、総指揮官の土橋中佐が、「只今、敵大型機の爆撃を受けつつあり」とか、「敵雷撃機編隊来襲」「我が方被害なし」などの情報を伝えて来るので、——今日も当たらんな。こうヒマなら、ハーモニカでも持って来るんだった——芝山は、そのように、のんびりと構えて、班長の佐藤兵曹と冗談を言い合っていた。
そこへ、七時二十六分、頭の上で、ゴツンという衝撃があった。
「当たったかな?」
「中部リフトのへんですね」
二人がそう語っているとあかりが消えた。
すると、
「中部リフト火災! 防火班放水始め!」
という号令が拡声器で響いた。
「おい、行こう!」
芝山は、十名ほどの応急班員を連れて、すぐ上の第二段格納庫の横に上がった。すでに応急班員がホースを引っ張っていた。その向こうに、火焔が見えた。
「後部リフト火災!」
またそういう声が拡声器で流れた。
「おい、中部の火を消せ!」
芝山が叫んだとき、艦攻のガソリンタンクが誘爆でふきとんだ。火焔は広まり、ホースの水はまだ出なかった。格納庫の温度は上がっていた。
芝山は、運搬車にのせられた爆弾に手をふれてみた。かなり熱かった。——こりゃあ、誘爆が続くぞ——彼は、一旦、下の甲板に降りて、別の通路から、火災現場に近づき、防火の指揮をとろうと考えた。通路の防水隔壁をさえぎる防水扉は、すべて密閉されていた。芝山は判断した。今、被害は火災によるもので、魚雷による浸水ではない、通路がひらかないと、ホースも人員も通れない。
芝山は、応急総指揮所への電話にとりついてみた。電話は切れていた。艦橋からの拡声器も沈黙していた。——今こそ、やらなければならない——芝山は、独断専行という言葉を思い出した。彼はメガホンで、近くの応急員に命令した。
「各区画、防水扉ひらけ!」
号令は次々に伝わり、防水扉が、ギイーッ、ギイーッとひらかれ、前部と後部の交通は、きわめて風通しがよくなった。(芝山のこの処置のために、総員退去のとき、防水扉が火で溶けて癒着するようなことがなく、数百名の人員の生命が救われることになるのである)
芝山は、前部に急いだ。しかし、二十サンチ砲の揚弾機の口から、すでに火焔が舞い下りて来ており、行く手を阻んだ。上部の格納庫では、爆弾の誘爆が始まっていた。天井を見ると、すでに、熱のために、白いペイントが溶け、泡をふいていた。芝山は、途中のラッタルで、中段格納庫をのぞいた。しかし、火は、全格納庫にひろがり、もはや消火は不可能と思われた。爆発してひっくりかえった艦攻の腹の上で、長さ六メートルの魚雷が、熱せられて赤く変色しているのを芝山は認めた。——格納庫はもうだめだ——彼はなおも前部へ急いだ。士官室の横を通ったとき、上部の格納庫の爆発で、天井が抜け、焼けた鉄板が、食卓の上にどさりと落ちた。
芝山は、なおも前進し、機関科事務室の横を通りすぎたとき、上で、ドカンと誘爆の音が聞こえた。ふり仰ぐと、天井の一部が裂けて、格納庫から、炎が舌を出しているのが見えた。芝山は、左の太股《もも》に衝撃を感じて、うずくまった。爆弾の破片かと考えたが、実際には、鉄板をとめてあるリベットが一個、肉のなかを貫通したのである。リベットは、股の内側から入り、外側にぬける手前で止まっていた。痛みは激しく、芝山は気を失って、その場に倒れた。
赤城の東方四千メートルを北東に向かって航進中の、飛竜の艦橋から、真っ先に視認されたのは、旗艦赤城の被災であった。
「赤城火災!!」
「加賀、燃えています!」
「蒼竜、大火災!」
見張員が次々に報告するのを、第二航空戦隊司令官の山口多聞少将は、双眼鏡をかざして、一つ一つ念を押すように確かめた。
第一航空戦隊の赤城、加賀はもちろん、二航戦の二番艦である蒼竜までも、敵弾を浴びてしまったのである。
——直チニ第二次攻撃隊発進ノ要アリト認ム——。
と意見具申したのは、敵空母発見の直後であった。その時すでに、飛竜の艦爆隊は、格納庫のなかで準備を完了していた。
——あのとき、爆装のままで発進させておけば、こういうことにはならなかっただろう——。
山口は、当然、そう考えたが、愚痴をいうのは性に合わなかった。
双眼鏡を下におろすと、彼は、おもむろに艦橋内を見わたした。先任参謀の伊藤清六中佐、航空参謀の橋口喬少佐、機関参謀の久間武雄少佐、通信参謀の安井真次少佐、すべてが、粛然としてうなだれていた。
ただ一人、艦長の加来《かく》止男だけは、昂然と頭を上げて、司令官の命令を待っていた。
山口は言った。
「みた通り、残ったのは、飛竜一艦だけだ。いまから、飛竜は敵空母と差し違える! まず、艦爆隊を発艦させる。そして、敵の方向に肉薄して、航空決戦を行う」
続いて、加来が言った。
「敵の位置は、本艦の北東百五十マイルあたりと思われる。母艦の戦闘機が掩護に来ているところを見ると、決して遠くはない。誓ってこれを撃滅するぞ!」
山口は飛行長の川口益中佐に言った。
「艦爆の隊長を呼んでくれたまえ!」
川口は、飛行甲板にいた艦爆隊長の小林道雄大尉を艦橋に呼んだ。
山口多聞は、若い小林(海兵六十三期)の顔を見ると、
「小林君、機動部隊は、本艦だけになってしまった。敵の空母は三隻いると思われる。まず、そのうちの一艦を倒してくれい。すぐあとから友永君の艦攻隊を出す。ではしっかり頼む」
山口は、大きな分厚い掌を出すと、小林と握手をした。掌の甲に、こわい毛が生えているのを認めながら、小林は、——これが、司令官と最初の握手だ。そして、最後の握手になるだろう——と考えた。
挙手の礼を終わると、小林は艦橋を降りた。飛行甲板では、すでにリフトによって引き揚げられた九九式艦爆が、プロペラを回し、発進の合図を待っていた。
小林は、搭乗員を整列させると、簡潔に訓示を与えた。
「いま、山口司令官から、しっかりやれ、と激励のことばがあった。本艦の艦爆隊は、唯一の艦爆隊だ。みな、おれのあとに、まっすぐついて来い」
午前十時四十分、小林のひきいる艦爆十八機は、戦闘機六機に掩護されて、飛竜を発艦、北東ヘアメリカの空母を求めて急行した。艦爆第一中隊長は小林、第二中隊長は山下途二大尉、掩護の零戦隊長は、橋本や後藤と同期の重松康弘大尉、そして、同じく同期の近藤武憲大尉は、小林中隊の二小隊長機として、同行していた。
折柄、風は北東五メートル、海面はおだやかで、うねりのみが大きかった。
飛竜は攻撃隊の発艦を終わると、三十ノットの高速で、北東、すなわちエンタープライズや、ヨークタウンのいる方向に直進した。
艦底の機関科指揮所では、「第五戦速」という速力通信器の針を見た梶島大尉が、——やっぱり来たか——と、機関長の横顔を見た。機関長の相宗中佐は、艦橋に「敵の位置と兵力を知らせ」と電話で尋ねさせた。艦橋からは、「わからん」と言って来たきりだった。——要するに機関科はスクリューを回しておればよいということだろう——と、梶島は考えていた。
このとき、彼我《ひが》の距離は、正に百二十マイル(東京と大井川の間)、爆撃機でも一時間そこそこの距離である。
肉を斬らせて骨を斬る、ミッドウェー海戦の、決戦後半の幕は、ここに切って落とされたのである。