昭和十七年六月五日、午前八時、ミッドウェー海戦は、たけなわ《ヽヽヽヽ》となりつつあった。
西経百七十九度八分、北緯三十度十八分の海面で、腕を組んで、冥想にふけっている提督がいた。第二航空戦隊司令官、海軍少将、山口多聞である。
飛竜はいつの間にか日付変更線を越えて西半球に入っていた。
日本の機動部隊が使っている東京時間では、六月五日午前八時であるが、アメリカ海軍が使っている、ミッドウェー海域の地方時間では、四日の午前十一時であった。
太陽はほぼ天心にあり、被爆して燃えさかる、赤城、加賀、蒼竜の三空母を照らし続けていた。この三艦も、西半球の西経百七十九度と百八十度の間に点在していた。
火の神にとりつかれて、身悶えする巨人のような三艦をあとに残して、一艦だけ無傷の飛竜は、まだ無傷の米空母を求めて、北東に急行していた。
今朝までは上陸目標であったミッドウェーの北西百五十マイルの海面を、太陽を背にして、飛竜は北東に直進した。
この時点で、アメリカの三空母は、西経百七十六度四十分、北緯三十度四十五分の周辺にいた。飛竜からの距離は、東北東百二十マイルである。山口多聞の判断は、正しかったといえる。
これより先、午前七時五十分、山口多聞は、全艦隊あてに、「全機今ヨリ発進、敵空母ヲ撃滅セントス」と、決意のほどを打電した。
ところが、同じ時刻に、八戦隊司令官の阿部弘毅少将は、二航戦に対し、「敵空母ヲ攻撃セヨ」という命令を打電していた。
ここで海軍のしきたりについて説明しておこう。赤城ほか三艦が被爆すれば、当然、二航戦の山口少将が、飛竜の攻撃隊を指揮するものと想像される。しかし、機動部隊の最高指揮官は、南雲中将(海兵三十六期)で、次席指揮官は、阿部少将(三十九期)である。四十期の山口多聞は、阿部少将よりも後任である。
赤城の司令部は、艦橋附近の火災が激しいため、午前七時四十六分、駆逐艦野分《のわけ》のカッターを横附けさせて、南雲司令長官以下がこれに移乗し、巡洋艦長良に向かった。このとき、赤城の艦橋マストからは、南雲中将の将旗がおろされていた。八戦隊旗艦、利根の艦橋にいた先任参謀の土井中佐は、
「司令官、赤城に将旗があがっておりません」
と阿部少将に報告した。
阿部少将は、次席指揮官として、自分が指揮をとる責任を感じて、攻撃命令を飛竜に打電した。すると、折り返し、飛竜から、自主的な攻撃意思表明の電報が入電した。
利根の艦橋でこの電報を見た、阿部少将は、白髪のまじった口髭をなでながら、眉をしかめた。六カ月半前のウェーキ島攻略作戦当時の状況が、阿部の脳裡に浮かんだ。
日本海軍は、ハワイ攻撃と並行して、ウェーキ島の攻略を実施したが、失敗に終わったため、ハワイから帰る二航戦の飛竜、蒼竜をその支援に当てた。二航戦には、八戦隊と駆逐艦が同行し、指揮は、先任者の阿部少将がとることになっていた。これは、山口多聞にとっては迷惑なことであった。空母の司令官が、一々巡洋艦の司令官におうかがいを立てて、飛行機の発進をやっていたのでは、臨機即応の行動はとれない。
このとき、山口多聞は、艦橋にいた先任参謀の伊藤清六中佐に、
「どうも、しろうとに指揮されたんじゃあ、やりにくくていけない」
と洩らしていた。
この次は、かまわずに、自分が航空戦の指揮をとろう、その方が実際的だ、と山口は考えていた。
ミッドウェーで、赤城を含む三艦が被災したとき、阿部少将の指示を仰ぐ前に、攻撃隊発進の意思を打電し、続いて、小林の艦爆隊を発進させたのは、この決意にもとづくものであろう。
もっとも、この日、朝から山口は焦れていた。午前五時半、利根の索敵機から「敵発見」の入電があったとき、「直チニ攻撃隊発進ノ要アリト認ム」と意見具申したのに、赤城の司令部はぐずぐずしていて、とうとう、三艦被災の大事を招来してしまった。
もう、しろうとには、まかせておけない、と山口は考え、何度も飛竜の艦橋で唇を噛んでいた。もし、独断専行の行きすぎがあったら、腹を切っておわびをすればよい。長年手塩にかけた母艦や搭乗員を、手遅れのため、みすみす火にかけるよりはましだ、と彼は考えていた。彼は本当に怒っていたのである。
ここで、猛将の聞こえ高い山口多聞の来歴と、人柄について述べておこう。以下は、山口と同期の寺岡謹平元中将の著書、「山口多聞と其の生涯」によるものである。
山口多聞は、明治二十五年八月十七日、東京に生まれた。父は山口宗義と言い、旧松江藩士で、茶道で有名な松平侯に仕《つか》えていた。明治初年、藩から選抜されて、東京大学の前身である開成学校に入り、卒業後、大蔵省の官吏となり、台湾が日本の領土となったとき、台湾総督府の財務部長を勤め、その後、日本銀行の理事となった財政家である。
宗義の弟、半六は、工部大学出身で、文部省に勤め、日本最初の工学博士となった。
その弟、鋭之助は、東京帝大理学部を出て、理学博士となり、一高、京大の教授、学習院長を勤めた学者である。
多聞の母、貞子は、佐賀の小城藩の藩士の娘で、厳格なしつけのなかに育ったが、慈愛深い、典型的な武家の息女であった。
父、宗義は、若いときから忠君愛国の志が篤《あつ》かった。三男を多聞と命名したのは、南朝の忠臣楠正成の幼名多聞丸からとったもので、父が息子によせた期待を知ることが出来る。
多聞には、兄二人、弟二人、姉二人、妹一人があり、八人兄弟のちょうど真中であった。
多聞は、裕福な家庭に育ったので、経済的な苦境を味わったことはないが、その考えは決して安易に流れることはなかった。これは、明治時代のきびしい教育と、家庭の訓育によるものであろう。
多聞は、神田の開成中学に学んだ。当時は、攻玉社中学から海軍関係の学校に入るものが多く、開成は、陸軍に行くものが多かった。山口家は、当時本郷に家があったが、神田まで、毎日、歩いて通学し、冬でも、マント(外套)を着用しなかった。
これは、彼の自己鍛練の思想の現われで、後年、司令官となってからの猛訓練は、“人殺し多聞丸”と呼ばれ、航空関係の搭乗員におそれられたものである。
多聞の父は財政家であり、叔父は理学博士、工学博士である。これを見れば、山口家の資質が、理数に明るいということが想像出来る。事実、多聞は、数学をはじめ、理科系に強かった。そして、開成中学始まって以来、稀《まれ》に見る秀才であった。
秀才というものは、あまり勉強をしない。彼は明治四十二年、開成中学四年生から第四十期生として、海軍兵学校に入校した。応募者三千余名中、合格者は百五十名で、多聞は合格者中、最年少であった。
全国の俊秀を集めた兵学校でも、多聞はずばぬけていた。大正元年、彼は二番で兵学校を卒業した。一番は後に海軍省軍務局長になった岡新《あらた》である。岡は勉強家であったが、事務系統の才能をかわれ、実戦では、同期の山口、大西滝治郎、宇垣纒《まとめ》、福留繁らほどの足跡を残してはいない。
江田島時代の山口多聞は、あまり勉強しなかった。彼は学問のがり勉はきらいであった。それよりも、体育と精神訓育に熱を入れた。それでいて二番で卒業したのであるから、すぐれた資質に恵まれていたというべきであろう。
しかし、成人してからの彼は、単なる精神主義的な愛国者ではなく、冷静な合理性と、国際的なヒューマニズムも身につけるようになった。
これは、大尉時代(大正十一年ごろ)アメリカのプリンストン大学に留学したことが、大きく影響しているであろう。当時、アメリカは、国も人も、まだ大いに若々しく、多聞は、国際色を身につけ、またヤング・アメリカのメリットをも学んだのであった。
佐官時代、多聞は早くも肥満して、下腹が出っぱっていたが、大佐時代に、馬術の修業をしたことは有名である。
昭和十一年秋、福井県下で陸軍特別大演習が行われた。山口は、海軍大学校教官として、これを参観した。天皇が親裁されるので、正規の参観者は、陪観と称して、乗馬で随行することになっていた。山口は、陪観が決まると、急遽《きゆうきよ》、馬事公苑で馬術の猛訓練を行った。こういうストイックな訓練は得意中の得意である。彼は、一週間近い演習期間を、馬上で随行した。道のない山河を強行軍するので、本職の騎兵将校でも、困難を感ずる場面が多かったが、彼は頑張り通して、
「海軍さん、なかなか乗りますな」
と、騎兵旅団長を感心させた。
山口を生えぬきの航空屋と考えている人が多いようであるが、彼の専攻は潜水艦である。日華事変が始まった当時、彼は潜水戦隊旗艦、五十鈴《いすず》の艦長であった。しかし、戦争が始まり、渡洋爆撃が行われ、九六式艦上戦闘機が戦果をあげると、彼は飛行機に目をつけた。これからの戦争は、海軍でも飛行機が主体だ、そう考えた彼は、航空隊の司令を志願した。
昭和十五年一月、彼は第一連合航空隊司令官を命じられた。待望の航空部隊指揮官である。彼は九六陸攻と九六戦をひきいると、漢口にとんで、前線の作戦を指揮した。
当時、漢口の飛行場には、第二連合航空隊がおり、これも猛将として名高い、大西滝治郎が、司令官として陣どっていた。この同期生の猛将同士は、意気相投じたが、ときに意見が喰い違うこともあった。
昭和十五年五月、ヨーロッパで英仏軍がドイツ軍に圧倒されているのと併行して、中国でも、この際、重慶を爆撃して、蒋介石軍の息の根を止めようという、陸海合同航空作戦が発動された。総指揮官は山口多聞である。
このとき、大西は、「この際、重慶を徹底的に破壊すべきだ。戦争を早目に終結させるためには、無差別爆撃も止むを得ない」という意見を吐いた。
同じ、猛将でありながら、山口多聞は反対であった。プリンストン大学で学んだ国際法や、国際的道義というものが、彼の頭にあった。
「いかなる理由があろうとも、無差別爆撃はやるべきではない。国際的な信義は守らなければならない」
として、彼は親しい同期生である大西の言を、断乎としてしりぞけた。
このあたりに、二人の猛将の性格の差違を見ることが出来る。大西はどこまでも意志の人であり、山口は、知と情の人である。
大西は国家を勝利に導くためには、あるいは、少しでも惨めな敗北から救うためには、特攻もやむなし、としてこれを強行した。
山口は、飛竜の第四次攻撃に当たって、戦闘機が少ないから、白昼の攻撃は被害が大きい、と考え、薄暮《はくぼ》攻撃を計り、日没を待った。この間に奇襲を受けて、飛竜の被爆を招き、艦と運命を共にしている。
山口の死を聞いた連合艦隊参謀長、宇垣纒は、「戦藻録」のなかで、「山口少将は剛毅《ごうき》の果断にして(中略)余の同期生中最も優秀の人傑を失うものなり。(中略)司令官の責任を重んじ、ここに従容《しようよう》として艦と運命を共にす。その職責に殉《じゆん》ずる崇高の精神正に至高にしてたとゆるに物なし」と追悼している。
さて、伝記が先走ったが、飛竜艦橋の山口に視点を返そう。
参謀たちの眼には、山口が必死に何ごとかを念じているように見えたが、実際には、簡単な計算をしていたにすぎない。
山口の頭のなかには、二つの数字があった。三と一である。彼は敵の空母を三と推定した。こちらは一である。まず、小林の艦爆隊によって、その一つを叩いて発着不能に陥れる。ついで、友永の指揮する艦攻隊で、いま一艦を叩く。そうすれば、残るは一対一の決戦である。ここで刺し違えれば、双方に空母はなくなる。そうすれば、内地にいる五航戦の翔鶴《しようかく》、瑞鶴《ずいかく》を急遽呼びよせるかたわら、ミッドウェーを占領し、引き続いて、ハワイ攻略も不可能ではない。実戦家であると同時に、戦術家でもある山口は、GF(連合艦隊)長官の山本五十六が考えることまで、計算していた。
もし、この案が失敗したならば……と、彼は考えた。もし、敵空母の全部に被害を与えないうちに、飛竜が決定的なダメージを受けるようなことがあるならば、二航戦の司令官としては、艦と運命を共にして、作戦の失敗を、お上《かみ》と部下に詫びるのみである。山口多聞は、そう自らに決断を下していた。