午前八時半、飛竜と、アメリカの機動部隊の距離は百マイルに接近していた。
三隻のうち、もっとも南西、つまり、飛竜の方に寄っていたのは、ヨークタウンである。
ヨークタウンの艦橋で、フレッチャー提督は苦悶していた。
マックス・レスリー少佐のひきいるSBD艦爆隊十七機、レム・マッセー少佐のひきいるTBD雷撃隊十二機がヨークタウンを発艦してから、三時間近くが経過していたが、攻撃隊からは、何の連絡もなかった。
エンタープライズのマクラスキーから、午前七時五分、「直ちに母艦を攻撃せよ」という部下あての無電があったのを、スプルアンスは入手していた。しかし、その後は、何の電報も入って来なかった。マクラスキー機は、投弾後、引き起こす間もなく、零戦に襲われ、操縦室に命中弾を受け、彼自身も左の肩と腕に二十ミリ弾の破片を受け、出血していた。他の飛行機も、零戦の追撃をかわすに忙しく、戦果の報告どころではなかった。
フランク・ジャック・フレッチャーには、“ブラック・ジャック”というあだ名がついていた。ブラック・ジャックというのは、トランプを用いてやるギャンブルの一種である。フレッチャーは、若いときから“博才”があった。提督になったとき、海軍部内では、その“博才”が、実戦に生かされることを期待していた。
しかし、彼が最初に参加した五月七日の珊瑚海海戦では、小型空母翔鳳一隻を撃沈したにとどまった。レキシントンは沈められ、ヨークタウンも大破したのである。
いま、後輩のスプルアンスの隊は、何らかの成果をあげたらしいが、総司令官である、彼に直属の、ヨークタウン隊からは、何の報告もなかった。もし、今度、戦果があがらなかったら、ブラック・ジャックなどという名前は返上すべきだ、と考え、彼はヨークタウンの艦橋を行ったり来たりしながら、しきりに爪を噛んでいた。
その頃、雷撃隊のレム・マッセー隊長は、すでに海の底に沈んでおり、爆撃隊のマックス・レスリーは、無電機に被弾して、ひたすらにヨークタウンを探し求めていた。
ヨークタウンの艦長、バックマスター大佐には、司令官のあせる気持がよくわかった。彼自身も焦れていた。敵の空母は四隻だというが、残りの一隻はどこにいるのか。索敵機はどこをうろついているのか。エンタープライズのマクラスキーは突撃したらしいが、ヨークタウンのマックス・レスリーは何をしているのか。アメリカ海軍一と勇名を誇ったウォルドロンのホーネット雷撃隊は、どのような成果をあげ得たのか。立ち遅れたヨークタウンの雷撃隊は、一体、敵空母を発見出来たのかどうか。何とか言ったらどうなんだ。——まったく、戦闘というやつは、みみっちいつねり合いだ。こんなことでくよくよするなんて、これは女のやることだ——。
バックマスターは、かみたばこを吐き出すと、艦橋の窓から、外の海面に向かってつばをはいた。
飛竜の艦爆隊長、小林道雄大尉にとって、敵を発見することは、それほど難しいことではなかった。
発艦して、編隊を組むと間もなく、彼は、北東に向かって帰投してゆく、アメリカの小型機を認めた。その多くは、やっと零戦の追撃をふり切ったマクラスキーやマックス・レスリー艦爆隊の生き残りであったが、なかには十三機のうち、たった二機だけ生き残った、レム・マッセーのヨークタウン雷撃隊の幸運なデバステーターもまじっていた。
——まさに送り狼だな——。
小林は、見えつかくれつ、その米軍機のあとをつけた。その先に、米空母の輪型陣を、彼は予想していた。
小林隊は、十八機から成っており、第一中隊九機を小林が中隊長として引率し、第二中隊は、山下途二大尉が中隊長を勤めた。
第一中隊の二小隊長機に近藤武憲大尉が乗っていた。初陣であり、緊張していた。彼は操縦を握っている自分の右掌を意識していた。飛竜発艦の直前、同期生の橋本が、「しっかりやって来てくれよ」と握った掌である。それに対して、近藤は「ひき受けた。一足先に行くぞ」と答えて、発艦したのである。
近藤機の二百メートル上空に六機の戦闘機がいた。重松康弘が隊長機に乗っていた。
——あそこにも、クラスがいるな——。
近藤は上空を仰いだ。高層雲を背景にして、六機の零戦は、エンジンを絞り気味にして、九九式艦爆の護衛についていた。
合計二十四機の攻撃隊は、多いとは言えなかった。この日の早朝、友永がひきいた陸上攻撃隊は百八機という編成であった。そして今、肝心の敵空母を攻撃に行くにあたって、全機動部隊から出せる攻撃隊は、この二十四機しかなかったのである。
午前八時二十五分、近藤の頭上の零戦隊の隊形が乱れた。
飛竜艦爆隊の斜下に、アメリカのドーントレス六機が見えた。ドーントレスは、左から右に小林隊の進路を横切ったのであるが、重松にはそれが、今から飛竜を攻撃に行く爆撃隊のように見えた。飛竜に知らせているひまはなかった。彼はバンクをふると、零戦隊を解散し、真下のドーントレスに向かわせた。二十ミリの斉射を受けたドーントレスは、四機が燃料タンクから白いガソリンの糸を引いたが、墜落はしなかった。重松はあきらめて、集合を命じた。それが聞こえなかったのか、まだ襲撃を繰り返している一機がいた。二小隊長の峯岸義次郎飛曹長機であった。峯岸は乙飛(予科練)の二期で、長いキャリアを持っていたが、自己顕示性の強い男だった。階級や命令よりも、敵を墜とせば、文句はないだろう、という態度があった。結局峯岸は、編隊からはぐれてしまい、一機も墜とさぬうちに、被弾して燃料に不足を来たし、母艦に引き返した。いま一機、佐々木斎一飛曹の機も、十三ミリ弾を受け、操縦に支障を来たし、引き返して、飛竜の直衛駆逐艦の近くに不時着、救助された。(峯岸飛曹長は、筆者が宮崎県富高航空基地にいたとき、零戦隊の分隊士であった。操縦の派手なことで、いつも注意を集めていた。着陸直前に横転のように激しい旋回をして、地上指揮官をはらはらさせてから、着陸して得意になっているところがあった。何度注意されても、この癖は直らなかった。彼は十九年二月、マーシャル群島のルオット基地に敵襲があったとき玉砕した)
こうして、小林隊を護衛する零戦は四機に減ってしまった。
午前八時五十分、小林の後席、小野義範飛曹長が、伝声管に叫んだ。
「隊長! 航跡が見えます」
「うむ……」
小林も、その白い航跡を認めていた。そして、その向こうに、黄色いワラジのような空母が、東に向かって直進しているのを認めた。
「敵発見、突撃隊形造れ」
彼は、こう下令した。無電は、飛竜の電信室でもキャッチされた。高度五千メートルで、十八機が小林を右先頭にした斜単横陣に展開した頃、グラマンが姿を現わし、空中戦が始まった。
ちょうど、同じ頃、マクラスキーは、エンタープライズに着艦し、艦橋に登って、戦況を報告した。
「JAPの空母は三隻です。そのうち、大きい方の二隻は、わが隊がやっつけました。もう一つ、少し、小さいのも、トーチ(たいまつ)のようになりました」
うなずいて聞いていたスプルアンスは、
「第四の空母は見えなかったかね」
と訊いた。
「東の方に一隻いたように思います。そして、それは無傷だった」
そこまで言うと、彼はめまいを感じ、コンパスの台にもたれかかった。
「衛生兵《メデイツク》を呼べ、病室に連れてゆけ」
スプルアンスは、マクラスキーの飛行服の左袖が、血でどっぷり濡れているのを認めた。
「早く止血しないと、貧血で死んでしまうぞ」
スプルアンスは、そう怒鳴った。
衛生兵に手をとられて、ラッタルを降りようとしたとき、第二中隊長のディック・ベスト大尉が登って来た。(彼は赤城に命中弾を与えていた)
「隊長! いかがですか」
とディックは訊いた。彼は赤城と加賀に突入するとき、いきなりマクラスキーが加賀に突っこんだので、ディックの隊の大部分もそれに同調し、彼のところには四機しか残らなかったのを想い出していた。
「二つやっつけた。合計三つだ。ところで、おれは、零《ゼロ》にやられた。君は?」
「私もですよ、隊長……。まったく、あいつらはクレージー(気違い)だ」
ディックは、飛行帽をとってみせた。マフラーが巻いてあり、それに血がにじみ出していた。ディックの操縦席に命中した二十ミリ弾は、席内を駆けめぐり、あやうくディックの鼻をかじるところだった。
「じやあな、バイ……」
マクラスキーは、ラッタルを降りたところで、失神して倒れた。夢のなかで、彼は呟いていた。——二つやっつけた。おれは、ダイブ・ボンバー(急降下爆撃機)のウェイド・マクラスキー。ところで、トッピードー・ボンバー(雷撃機)のレム・マッセーはどうしたのだろう——。
攻撃に参加したエンタープライズのドーントレス三十三機のうち、母艦に帰着出来たものは十五機のみである。奇襲に成功したとはいえ、犠牲は小さくなかった。
ヨークタウンの艦橋では、論争が行われていた。マクラスキーの報告が、エンタープライズから入電していた。
「三隻はやっつけた。JAPのNO・4は、どこにいるのかね」
フレッチャーは、やっと元気をとりもどして、ブラック・ジャックらしいエネルギッシュな風貌に戻った。
「一隻は、遅れて参加しなかったのですかな。どの隊も攻撃していないということは、つまり……」
バックマスター艦長も、首をひねりながら、右舷、つまり南の方を眺めていた。
そのとき、見張りが叫んだ。
「敵爆撃機、約二十、南西より本艦に向かう」
ブザーがけたたましく艦内の空気をゆすった。
「艦長、第四の空母はいる。いや、確実にいたんだ。いま、そのメッセージが届きつつあるんだ」
フレッチャーは、無表情のままいうと、双眼鏡を眼に当てた。
幸いに、ヨークタウンは、飛行機を発艦したあとで、格納庫は空《から》であった。蒼竜を爆撃して帰って来た、マックス・レスリー少佐の隊は、着艦を許されず、いたずらに、上空を旋回していた。止むを得ず、レスリーは、電話で、ヒリュー型一隻撃破という戦果を報告したが、ヨークタウン無電室の返答は、「了解した、本艦は敵の空襲に備えつつある。着艦はそれが終わるまで待て」というそっけないものであった。
——何という礼儀知らずだ。もう頼まれても、行ってやらないぞ——。
レスリーは、操縦席で拳をふるってふんがいした。エンジンの響きがおかしくなった。彼のドーントレスは、片方の燃料タンクに被弾していた。どこに不時着するか……。レスリーは、海面を物色した。ヨークタウンの甲板が広くて、降り心地がよさそうだった。
まったく、母艦があるのに、降りられないなんて……。レスリーは、また肚《はら》が立って来た。彼は蒼竜の上空で、起爆装置のスイッチを入れた途端、自分の爆弾が、あさっての方向に落ちて行ったのを思い出した。——まったく、あの爆弾があったら、ぶっつけてやりたい——。彼は憎悪をこめて、ヨークタウンの甲板を横眼で見ながら、高度を下げて行った。そのとき、彼は、ヨークタウンの十二・七サンチ高角砲が一斉に火焔を吹き上げるのを見た。上空を見上げると、十機以上の爆撃機が突っこんで来るところだった。
——とうとう来た。これで、おれは永遠にヨークタウンに着艦出来ないかも知れない——。
マックス・レスリーは、半ばふてくされて、そう呟いた。そして、その予感は正しかった。