時刻を少しさかのぼって、燃えさかる機動部隊の旗艦赤城の状況を見てみよう。
南雲長官の司令部が、赤城を棄てて、巡洋艦長良《ながら》に移ることを決意したのは、午前八時三十分である。
それ以前に、副長、鈴木忠良中佐、応急指揮官、運用長、土橋豪実中佐を中心とする応急(防火、防水)のきびしい戦いがあった。
中部リフトを貫通した一弾(ディック・ベスト大尉による)……ただ一個の千ポンド=四百五十キロ爆弾が、四万トンの空母赤城の死命を制した。中部格納庫で爆発したため、車内にあった二十機以上の艦攻、艦爆の燃料、爆弾の火薬、魚雷の圧搾空気が、一斉に誘爆を始めたのだ。
火焔は巨大な朝顔のように、二百メートル以上、中天にふき上げ、中部の破孔附近の人員はほとんど殺傷された。一発の千ポンド爆弾は、十発の八百キロ魚雷と、十発の二百五十キロ爆弾の効果をもたらしたのである。
運用長土橋中佐は、直ちに防火隊を派遣して防火に努めたが、消火ポンプが故障しているので、水が出なかった。火は流れ出るガソリンを伝い、燃えながら這って行くと、燃料タンクにたどりつき、爆発音とともに燃え上がり、高熱によって附近の爆弾や魚雷を灼熱させた。
戦艦ウェストバージニヤ、空母レキシントンを屠った強力な火薬の力を、赤城は身をもって実験していた。伝家の宝刀で切腹し、その切れ味を試すに似ていた。
二百五十キロ爆弾は、真っ赤に灼けて半透明になりかかっていても、爆発しないものがあった。整備員はそれを運搬車にのせて、あるいは、機の腹につけたまま舷側に押して行って、海に落とした。運搬車も熱しており、応援のため、その把手をつかみ、じゅうという音と共に、掌が金属に灼きついてしまった搭乗員もいた。
上部、中部格納庫は、修羅場と化した。首や胴のない死体、腸を露出して唸る整備員、全身に火傷を負って、「水、水……」と叫びながらころげまわる兵器員、この世の火焔地獄であった。
勇敢で勤勉で昇進の早かった若い下士官も、新兵に辛《つら》くあたるので恨まれていた古参兵も、郷里に年老いた両親と十一を頭に五人の子供を残して応召した老整備兵曹長も、平素、ヨタばかりとばして同僚を笑わせていた愛すべき機銃の旋回手も、みな一様にこの火焔の洗礼を受けて、生身を焼かれたのであった。
高オクタンの航空燃料と爆弾と魚雷を満載した母艦の格納庫は、火葬場以上の好適な焼き場であった。もろもろの運命をはらんだ人々が、その運命を一挙に中断終結せしめるため、この焼き場で、これという儀礼もなく火葬に付せられたのであった。火は誘爆によって、中部格納庫から徐々に下部格納庫、上部の艦橋、下部の士官室、下士官兵居住区、そして、機関室の方に拡がって行った。
搭乗員室が灼けて、居たたまれなくなったので、後藤仁一大尉は、村田少佐や、山田昌平と共に艦首の長官ボートが繋止《けいし》してある附近に移った。彼らは、一様に相手が笑っているのに気がついた。今まで、口のはたを縛りつけていたバンドが、知らぬ間に溶けて流れたような笑いであった。お互いに他人が笑っていることには気づいたが、自分が笑っていることに気づいているものはいなかった。それは、人生にしろ、ゲームにしろ、突然、破局に陥った場合、人間が原始的に表現するあのニヒルな笑いであった。
火口のような破孔を胸に抱いたまま、赤城は走っていた。機関科はまだ健在であった。
「全力運転可能」そう艦橋に報告して、指示を待っていた。やがて火は最後部の操舵室に回った。(後部に千ポンド爆弾を命中させたのは、“森の鍛冶屋”とあだ名をとる、マクラスキー隊のブラック・スミス少尉であった)
ちょうど、取舵をとったところで、舵取機械は、電動機が故障し、旋回しなくなってしまった。艦長の青木大佐は、「機械停止」を命じた。それまで西を向いていた赤城は、燃えさかる火焔を抱いたまま、ゆっくり行き足を止め、洋上に停止した。今まで、艦尾にふき流されていた火焔は、一度真っ直ぐに立ち上ると、南東の風にあおられて、艦首に向かって流れ始めた。艦首にいた乗員たちは、煙にむせび始めた。続いて速力通信機も故障し、艦橋と機関科との連絡は絶えた。
艦橋では、源田と草鹿が相談していた。火が通信室に入り、旗艦としての指揮機能が失われていた。
「もう、致し方ありませんな」
草鹿は、南雲の方を向いて、実状を報告した。
「うむ、降りよう。長良を呼んでくれんか」
南雲は、眉をよせながら、そういうと、周囲を警戒している水雷戦隊の方を見た。潜水艦による雷撃のおそれがあった。
午前七時四十分、格納庫横の通路で防火を指揮中、焼けたリベットを左太股《もも》に受けて、一時昏倒した赤城甲板士官の芝山末男中尉は、意識をとり戻すと、立ち上がろうとした。左脚が動かなかった。血がカーキの作業服を濡らしていた。ズボンを切り裂くと、傷口が姿を現わした。芝山は、初め、小指を傷口にさしこんでみた。かなり深く、奥までは届かなかった。彼は胸のポケットにさしたシャープペンシルをとって、傷口の奥を探ってみた。かすかに金属の感触があった。
「やはり、リベットだ」
その金属の小片は、内股の付根近くからとびこんで、筋肉を貫通し、外側へ出る二センチほど手前で止まっていた。外側から手をあててみると、かなり熱かった。
「いいだろう、焼けているから、自然消毒になって、化膿することもあるまい」
芝山は、不思議に落ちついている自分を意識しながら、タオルをとって、太股を固く縛り、近くにころがっていた木材の一つをとると、杖にして立ち上がった。左脚をひきずりながら、彼は前甲板を目ざした。中部から火焔が拡がって来るということもあったが、前甲板に出て、燃えている艦の実状を見たいという希望が彼の胸のなかにあった。自分の股をぶちぬいた、焼けたリベットを投げてよこした格納庫の実状を見て、消火作業の指揮をとらねばならぬ、と彼は考えていた。彼はまだ、赤城の中部応急指揮官であった。
錨甲板(錨をつなぐ錨鎖が繋止《けいし》してある)まで出ると、あたりが明るくなった。空が見えた。硝煙に曇る、中部太平洋の六月の空を、芝山は見た。錨鎖に腰をかけて憩うと、南の方、つまり、左舷の方向に大きな煙の柱が二つ見えた。
「近いのが加賀、遠いのが蒼竜です」
近くにすわっていた整備兵曹がそう説明した。彼も脚をやられていた。気がつくと、錨鎖の間に、何十人も負傷者が並べられていた。なかには、顔の表情から見て、すでに息が絶えていると思われるものも数体あった。
「もう、機動部隊は、飛竜だけになってしもうたとですよ」
その下士官はそう説明した。芝山は、急には状況が呑みこめなくて、こめかみに痛みを感じ、眉をしかめた。
「甲板士官、指をやられましたね」
寝ていた応急員の水兵がそう言った。
右掌の小指の付根が裂けて、白い骨が出ていた。動かそうとしたが、少ししか動かなかった。(この後、彼の小指はほとんど硬直したきりで、薬指もよく曲がらなくなった。戦後、自衛隊に入った彼は、長い間、無礼な敬礼をする自分に悩んでいたが、このほど、海将補を最後に、定年退官した)
「おうい、だれか、軍医官を呼んでくれい。甲板士官がやられたぞう……」
下士官がそう叫んだ。
軍医大尉の宮坂が近づいて来た。作業服に血がこびりつき、顔は黒くすすけて、ひどく汚れていた。
「大分、やけ《ヽヽ》ましたね。軍医官……」
芝山は、自分と同じく、おしゃれで、モダンボーイである慶応出の軍医官を冷やかした。
「あんたの方がひどいよ、甲板士官」
宮坂は、無表情のままそう言うと、芝山を甲板に寝かせ鋏で、芝山のズボンをジョキジョキと切り裂いた。
「ふうむ、タマは、こちらから入って、どこへ抜けたのかな」
「タマじゃない、リベットだ」
「リベット!?」
軍医は、指を立てて、リベットの入った方向を調べ、
「ここへ抜けるはずだが……」
と、芝山の腿の外側を指先でさぐり、
「熱う……」
と呻いて、掌を振った。
芝山は少し愉快になって来た。いまは自分の身内ともいうべき、焼けたリベットが、他人を驚かすのが面白かった。
「ちょっと注射器を。その大きい方だ」
軍医は衛生兵から二十cc入りの注射器をとりよせると、リバノール液を一杯ひたし、傷口から、二十cc全部を注ぎこんで、ほうたいをさせた。
「動かないで。動くと消毒液がこぼれる」
軍医はそう言うと、立ち去りかけた。
「それだけ?」
と芝山は訊いた。
「それだけ。あとは海軍病院で……」
軍医はそう答えた。
芝山は、右掌の小指を見せた。
「軽傷だな、まだ指は付いてる」
軍医は、ほうたいをひと巻き与えると、
「自分で縛って」
と言って、次の負傷者の方に立ち去った。
——まったく、無情なもんだ、軍医という奴は……。多分、あいつは、外科か産婦人科だろう。いや、解剖学が専攻かも知れぬ——。
と芝山は考えた。
「おい、長官が長良に移られるぞ」
下士官の叫び声で、艦首の錨甲板にいた芝山中尉は、負傷した脚をひきずりながら、立ち上がった。左舷に、巡洋艦が接近していた。母艦よりはずっと、乾舷(水面以上の艦体)が低かった。
赤城は、「母艦トシテ使用不能」と見なされ、司令部は長良に移ることになった。駆逐艦野分のカッターが三隻近づいて来て、艦首、右舷に達着した。「搭乗員ハ退艦、捲土《けんど》重来ヲ期セヨ」という命令により、体の動ける搭乗員は、それぞれ、カッターに乗り移った。
芝山は、司令部がカッターに乗り移るのを、艦首の甲板から見おろしていた。
若いときから柔道で鍛えた南雲は、思ったより身軽に、ロープを伝わって、十五メートル下の海面で揺れているカッターに降りた。肥満した草鹿は、艦橋から甲板に降りるとき、ロープの使い方がまずくて、右足首を捻挫していたので、このときも、降り方がぎこちなかった。
遠ざかってゆくカッターの十二本のオールが、むかでの足のようにゆっくり動いて、水を掻くのを、芝山は、錨甲板の上から眺めていた。赤城はまだ燃えていた。風は、艦尾から艦首の方向に流れており、錨甲板には、煙が渦を巻き、負傷者たちは、熱風に眉をやかれながら、しきりにむせていた。