遠ざかってゆくカッターの艇尾にあって、航空参謀の源田実中佐は、赤城を眺めていた。赤城は、火焔を背負って、太鼓を打ち鳴らしている生き不動のように、不思議な活気を示していた。はるかかなたに加賀と蒼竜の火煙がのぞまれた。
源田は赤穂城明渡しの大石内蔵助のようなポーズで立っていた。城のかわりに、燃える三隻の空母があった。力なくすわると、
「ここで、翔鶴と瑞鶴がいてくれたらなあ」
と呟いた。
出撃前の作戦会議で、彼はそれを主張したのであった。
「源田君!」
と、草鹿がたしなめる口ぶりで言った。
肥満した参謀長は、足首の痛みに堪えて、眉をしかめていた。その眉はこう言っていた。——何も言うな。ほかの者ならいい。しかし、貴様は、何も言うな。言ってはいかん——。
源田は、かすかにうなずくと、南雲の方を見た。艇尾の座席に腰をおろした長官は、巌のようにいかつい肩をよじらして、燃える赤城を見ていたが、やがて、眼を閉じると、うなだれた。——えらいことが起きた。申し訳のないことをしてしまった——彼は、それだけを念じるように考えていた。情況の整理をすることは、急には無理であった。
カッターが、赤城に着いて、搭乗員を収容してはなれたとき、後藤仁一は艦内にとり残された。たまたま、彼は靴が水で濡れて気持が悪いので、私室にはきかえに行っていたのだが、そのため、離艦に遅れ、飛行長の増田中佐とただ二人だけ、搭乗員として赤城の艦内にとどまることになった。
他の搭乗員がいなくなると、だんだん彼は心細くなって来た。彼の乗機九七式艦上攻撃機は、庫内で燃えていた。彼の戦闘配置は失われたのであった。危険を冒すための裏付けである、信念と任務を失った彼は、急に心細くなって来た。その心細さを消すため、彼は附近の整備員にまじって、今、艦内における唯一の作業である防火に従事し始めた。
水面下七メートルの赤城右舷機械室にある機関科指揮所では、機関長以下全員が倒れていた。通風孔から火焔を吸いこんだので、生存者は少なかった。しかし、赤城の機械はまだ傷ついてはいなかった。先に、青木艦長の命令で、機械は停止したままであるが、回そうと思えば、回るのであった。左舷にあった機械指揮所では、機関科分隊長が、しきりに首をひねっていた。彼は伝令に言った。
「まだ、艦橋との連絡はとれないか」
連絡は中絶したままであった。
上甲板の方で、激しい炸裂音が聞こえていた。
「これだけ敵の弾丸《タマ》が当たっているのに、本艦は停止のままでいいのかな?」
分隊長の疑問はそれであった。(この音は誘爆の音であった)速力通信機は、依然、停止のままである。
「こりゃ、分隊長、艦橋も困っているんじゃないですかな、速力を出したいんだが、停止のままで、通信機が故障してしまった、ということだったら、大変ですぞ」
中年の機械長がそう言った。
分隊長も同意見であった。今は爆弾だけだが、そのうち、魚雷でも命中したら、本艦の運命は危い。
「そうだな、多分、君の言うとおりだろう、ここは状況判断して、独断専行すべきだな。とにかく、全力運転出来る機関を止めたままにしておくという手はない、激戦の最中だからな。スクリューさえ回しておけば、あとは艦橋で舵をとってくれるだろう」
分隊長は、タービンに蒸気を送るバルブをあけさせた。スクリューは回転を始め、赤城は十四ノットの強速で、走り始めた。
艦首で、煙にむせていた後藤は、驚いて横の増田飛行長に呼びかけた。
「おや、動き出しましたよ、飛行長」
「うん、こりゃ、しかし、何もならんよ。左にぐるぐる回るばかりだ」
舵取機械は、先刻、取舵をとったまま故障しているので、赤城は、その場で左旋回を始めたのである。
増田は艦長の青木の方を見た。青木は、艦橋を焼かれて、艦首に避退して来たのである。
「どうせ走るなら、敵の来ない方に走った方がいいんじゃないですかな、艦長」
増田の声に、青木もうなずいた。
「それはそうだな。人力操舵でやれんもんかね、副長」
青木の声に、
「そうですな、決死隊でやってみましょう」
副長の鈴木中佐は、運用科と整備科の兵から決死隊を募った。十名ばかりの兵がのろのろと集まって来た。みな火傷したり、服を焦がしたり、水に濡れたりして、どろんと濁った眼に精気がなかった。鈴木はその十名に、艦尾の艦底近くにある人力操舵室に潜行して、舵を動かすことを命令した。
軍艦の舵は、普通、油圧または電動機で動くようになっているが、それが故障したときの臨時処置としては、人力で直接舵を回す、人力舵取機が、舵のすぐ前部の部屋に設けてあった。十名以上の屈強な水兵が、いくつもの把手にとりついて、えいやえいやと舵を回すのである。
急ごしらえの決死隊は、いくつもの防水扉やマンホールを、ハンマーで叩き破り、熱湯の中に浮いている焼けただれている死骸をおしのけながら、ようやく人力操舵室に達した。
さて、舵をどのように回すか。
副長は、一名伝令を派遣して、艦首がちょうど、西を向いたときに、舵を中央に戻す予定であった。ところが、その伝令が途中で行方不明になってしまった。人力操舵室で待機していた十名は当惑した。いつまで待っても、何の音沙汰もない。このまま上から火が移って来たら、おれたちはどうなるのか。
艦底の暗い操舵室で、ただ、ごとごと足の下で回るスクリューの音だけを聞きながら、彼らは背筋を走る鬼気のようなものを感じ始めていた。
「とにかく、舵を中央に戻しておこうじゃないか、同じ所をぐるぐる回るんじゃ能がないし、また敵襲があったら、いい目標になってしまうぞ……」
古参兵の提議によって、とにかく彼らは舵を中央に戻すことにした。
「わっしょい、わっしょい……」
焦熱地獄のように蒸し暑い、暗黒に近い艦底で、彼らは、かけ声と共に、必死の力をふり絞って舵輪を回した。舵は中央に戻った。十名は、一息ついて、再び、あの暗い危険な通路を前部上甲板の方に急いだ。情況は往路よりも悪化しているように思われた。誰が閉めたのか、往きにあけておいたマンホールが、しまっており、下から押しあけると、熱湯が頭から流れ落ちたりした。幾度も焼けた鉄片が飛んで来るのに傷ついたりしながら、彼らは艦首に戻って来た。彼らは、当然、何らかのねぎらいがあると考えていた。正しく、困難な事業に生命を賭けたのであるし、あの暗黒に堪えての力仕事は、褒賞に値すると誰もが考えていた。
「よくやってくれた」
そういう言葉を期待して、彼らは埃と煙に黒ずんだ顔を副長の前に並べた。
「いや、御苦労さんだった、しかし……」
鈴木副長は、悲しそうな顔で彼らの労をねぎらった。彼らはまわりを見回した。艦は東北東、ハワイを指して、十四ノットで走っているのであった。運悪く、舵を戻したとき、艦首がハワイに向かっていたわけであった。決死隊の十名は、それを知ると、がっかりしてしまった。へたへたとその場にすわりこんでしまったものもいた。艦長も飛行長も後藤も一様に情なさそうな顔になっていた。人間の必死の努力が、いかに偶然の一かけらにも値しないか——彼らは、悄然《しようぜん》として、しばらく艦首が海水を切り、白波を立てるのをみつめていた。いま一度、操舵室に決死隊を出すか。しかし、誰が果たして、この報酬の少ない賭けに労力の提供を申し出てくれるか。情況は時刻と共に悪化していた。連絡をいかにすべきか……、この一点で、艦長の青木は迷っていた。人力操舵が不可能とすれば、機関科に決死隊を出して、機械停止を命ずるか。一体、誰がスクリューを回しているのだろう。青木は、深い淵をのぞく思いだった。青木は徒労感に打ちのめされながら、茶色に焦げた靴の先をみつめながら、考えこんでいた。戦争そのものが大きな徒労であるが、彼はそのなかの一つの徒労について考えているのであった。
しかし、多くの人にとっては、徒労であっても、たった一人の人間にとっては、有益であることもあり得る。
ここに一人だけ喜んでいる男がいた。その男は、赤城の艦上にはいなかった。附近の海面に樽のように漂っていた。朝五時ごろ、敵の雷撃機を追跡中、味方の機銃で撃墜された蒼竜の戦闘機隊分隊士、藤田怡与蔵であった。
藤田は、朝から五時間近くの漂流に、手足はぶよぶよになり、眉毛や鬚にも塩がたまり、かなり疲労していたが、持前の気さくな性分から、まだ楽天的であった。——おれはきっと助かる。おれの生まれた日は、お釈迦様と同じ日なんだからな——彼は何度も自分にそう言って聞かせた。彼は海面に漂う観戦武官であった。彼はうねりにゆられながら、機動部隊がまっしぐらに、ミッドウェーに突っこむのを見た。多数の星のマークをつけた飛行機が彼の頭上を飛んで、その方に肉薄して行った。やがて、母艦群は変針して北西に走り始めた。彼は水平線近くで母艦が三方で煙を上げるのを見た。——やられたかな——彼はそう考え、少し悲観した。そこでやられてしまっては、もう彼の助かる見込みはなくなる。——駄目か、おれも……。二十六歳を一期として……ということになるか——彼は青黒い何メートルあるかわからぬ海底の方をみすかしたが、——いや、まだまだおれの息の根のあるうちは、チャンスはあるんだ、悲観するのは、死んでからでも遅くはない、何しろ、おれの生まれたのは、お釈迦様と同じ日なんだから——彼はそう思い直すと、青空にプカリと浮いている断雲を見上げた。彼は渇いていた。さまざまな意味で、渇いていた、と言えるだろう。
——アイスクリームのようだな、佐世保のスコ(水交社)のアイスクリームはうまかったな、もう一度食えるかな、食ってみたいものだ。アイスクリームが駄目なら、氷イチゴでもいい——そんなことを考えながら、浮いていた彼は、太陽が中天を回った頃、自分の方に巨大な一艦が、燃えながら走って来るのにびっくりして、眼をみはった。艦首に菊の紋章をつけた平べったい艦《ふね》である。それは、見覚えのある旗艦赤城であった。両側に護衛の駆逐艦をつれていた。
——や、赤城だ。しかし、何でまたこんな方に進んで来たのだろう。燃えたまま、敵の方に突っこむつもりだろうか。まさか、おれをひろいに来たわけでもあるまい。見れば、ずい分いたんでいるようだが——。
彼がそういぶかっている間に、赤城は彼の二千メートル北を走りすぎた。後衛の駆逐艦、嵐の艦橋にいた航海長(兼水雷長)の谷川清澄大尉は、信号兵の報告にある予感を感じた。
「右四十度千メートルに、人が浮いています」
「うむ」
嵐の艦長渡辺保正中佐は、やや思案気だった。燃えながら敵の方に走っている赤城も心配だが、一人といえども、人命は貴重である。母艦から落ちた搭乗員や、艦が沈むとき、残存した乗員を救うのが、このとんぼつり《ヽヽヽヽヽ》と呼ばれる直衛駆逐艦の大きな任務でもある。
「生きているか、死んでいるか」
谷川は双眼鏡を眼にあてた。
「手をふっています。あ、アメリカ人のようです。鬚を生やしています」
「ふむ……」
渡辺艦長がうなったとき、谷川が眼鏡を眼にあてたまま口をひらいた。見たことのあるような顔であった。
「艦長近よってみましょう。日本人のようです」
「そうか。両舷前進微速!」
嵐は、速力を減らし、旋回しながら、藤田の方に近よって来た。カッターがおろされた。谷川も乗り移った。
抵抗するかも知れん、というので、先頭の兵が、拳銃を擬した。近よると、うねりの上に浮いていた男が、水を吐き出しながら、突飛な声を出した。
「おい、谷川じゃねえか」
「お、何だ、藤田か。どうしたんだ。こんなところで、何をしてるんだ」
「何をしてるったって、貴様……」
そう言うと、藤田は波をかぶって、ガブリと海水を呑んだ。
「まあ、いい、とにかく上にあげろ!」
艇員の二人が、櫂を手ばなすと、藤田を引っ張り上げた。カッ夕ーのなかに引きずりこまれ、艇尾の床にすわると、藤田はぼろぼろと涙をこぼした。彼は嬉しくも悲しくもなかった。涙は衝動的に出たのである。——やっぱり、おれは助かった。おれはお釈迦様と生まれた日が同じなんだからな——彼はそう考えようとした。しかし、何も考えは浮かんでは来なかった。涙だけが出た。涙だけはあざむけなかった。
カッターは嵐に着き、藤田は、兵二名にかつぎ上げられた。デッキに上がると、
「いや、歩ける、大丈夫」
そう言って、藤田は自分の足で立った。まだふらついていた。五時間、大地を踏んでいないと、人間の足は頼りなくなるものであろうか。
艦長にあいさつした後、藤田は、谷川の私室に導かれた。
「おい、貴様、外人といわれたぞ。見張員がそういうんで、艦長はレッコ(放棄)してゆくつもりだったんだ。おれが知っていると言って、カッターをおろしてもらったんだぞ」
谷川はそう言った。
藤田は激しかった空戦のことを考えていた。十機以上墜としたはずであった。そして、その報償として、自分を撃墜してくれた蒼竜の機銃のことを考えていた。——おれの気持は、谷川にはわかるまい——彼はそう思っていた。
「しかし、そんなに貴様の顔は、エキゾチックかな?」
谷川は、しげしげとこの同期生の顔に見入った。丸い顔、丸い顎、どう見ても外人に見える顔ではなかった。
「結局、その鬚だな、そいつがポイントだな。——貴様、海上だったからよかったが、陸上の戦闘でふいに味方と出会ったら、敵と間違えられて、やられてしまうぞ」
谷川は真顔で言った。
「うん、この鬚も剃ろう」
藤田は、重々しい調子で答えた。
「そうだ、それがいい、貴様のエキゾチックは、同じエキゾチックでも、モンゴリアンに近い方だからな」
谷川はそう言うと、一人でうなずきながら立ち上がった。
「しかし、貴様、よく助かったな。悪運の強い奴だ」
彼は思わず涙が出そうになったので、艦橋へ急いだ。藤田は、黙って顎鬚をなでていた。(戦後、藤田は日航国際線の機長となり、何度もミッドウェー近くの海上を飛んだ。谷川は、海上自衛隊の佐世保地方総監=海将となった)