いつの間にか飛行帽を失った橋本は、ざんばら髪のまま、飛竜の旗甲板のポケット(突出部)に立っていた。長身なので、のっそりという感じであった。煙がひどく、胸元が苦しいので、激しい息をしていた。火の粉があとからあとから降ってきた。時には赤く焼けた鉄片が頭上をとび越えた。頭に落ちた火の粉は、ジリジリと髪を焼いて、不快な異臭を放った。彼が盛んに頭の火の粉をはらっていると、下から、整備員の一人が、
「飛行士!」
と半ば焼けた防毒マスクをほうり上げてくれた。かけてみると、まだ使えそうであった。橋本の長身をみつけた副長の鹿江中佐が、艦橋から、
「おい、橋本大尉、そのあたりの兵隊を集めて火を消せ!」
と怒鳴った。
応急総指揮官の副長は消火に忙殺されていた。
橋本は、軽く手をあげて、了解の意を示し、旗甲板から、燃えている飛行甲板におりた。飛行靴の裏が熱かった。活動する意欲が湧いて来なかった。——そんなにきびしく言わんでもいいじゃないか——そう考えていると、対空戦闘のラッパがまた鳴った。——まだやるのか、もう飛竜はだめなのではないか——そう考えると、急に恐怖がこみあげて来た。——やはり、自分の戦闘配置にいないからだろう——と考え、リフトの方を見たが、自分の乗機はどこで燃えているのかわからなかった。
——まず、防火隊を作ろう。何かをしていなければだめだ——そう考えたとき、バサーッと音がして、艦橋の附近に巨大な水柱が上がった。B17の爆撃であった。橋本は爆風の風圧が、のどの奥から胸元の気管支のあたりまでとびこむのを感じた。手をつっこんで、こじ入れるような痛さだった。爆風で人が死ぬという意味がわかったような気がした。それ以上圧力が強かったら、彼の胸は、破裂していたに違いなかった。
続いて、灰色の火薬を含んだ泥水が頭からざぶりとかかった。爆弾は続いて附近に三発ばかり水柱をあげた。艦体には当たらなかった。——まだやるのか——彼は上空を仰ぎ、タ陽を浴びた断雲の上を悠々と去ってゆくB17の編隊をみた。
破孔のなかでは、人間が燃えていた。原形を止めているものは少なかった。人間は物体として、高熱の炉のなかで熔《と》かされていた。ふと、橋本は真珠湾攻撃のことを想起した。おれたちはあのとき、魚雷や爆弾で、アメリカの軍艦や建物を破壊した。戦勝と武勲のかげに、どれだけ多くの人間が、“もの”として、消散して行ったかを考えなかった。——今までおれが考えていたのは、戦争の表側にすぎない。いまおれが見ている“もの”こそ戦争の本質なのだ。これからが本当の戦争なのだ——橋本は激しい戦慄と共にのどの渇きを覚えた。内臓を抉《えぐ》り出されて、一つ一つ並べられるような苦痛と空白感を覚えた。
爆弾の水柱が消えた向こうに、駆逐艦が波を蹴立てている姿が見えた。いま、海中にとびこめば、あの駆逐艦に救助される……彼は飛竜から離脱したがっている自分を感じていたが、疲労と恐怖で体が萎《な》えたようになって、とびこむ元気もなかった。
彼は不安を打ち消すために、防火にとりかかることとし、附近を去勢されたようにふらふらしている兵隊を十人ばかり集めた。飛行甲板の板の隙間をチョロチョロと蛇の舌のように火が這っていた。ドラバケツ(長い引索《ひきづな》のついた帆布製のバケツ)で舷外から海水を汲み上げ、それを破孔に投げたり、雑布《そうふ》にひたして、甲板のチョロ火を叩かせたりした。その途中、彼はプスッと音がして、左股に何か金属が喰いこむのを感じた。まず熱く、ついで痛みが来た。血の流れる感じがあったが、負傷という感じはなかった。
太陽は西の水平線に沈んで行った。長い、実に長い、二、三十年分の長さを持った一日が終わった。しかし、戦争はまだ終わっていなかった。日没をすぎても、B17の爆撃は続き、午後四時をまわっても、誘爆は続いた。
母艦はまだ走っていた。ついに足元の甲板が焼けて来たので、橋本は艦橋の見張所に避難した。艦橋からは、信号兵がメガホンで、
「総員、早く火を消せ。火さえ消したら、二十八ノットで内地まで帰れるぞ」
と怒号を続けていた。火勢を見ていると、本当とは思えなかった。機関科の梶島は、この段階で重油タンクの残量を調べ、火さえ消えれば、かなりの速力で内地まで帰る自信があることを、艦橋に報告していた。しかし、兵たちは、火を消すというよりも、火勢に追われるという形で、のろのろと作業を続けた。
陽が完全に没して夜になると、敵の攻撃は止んだ。誘爆もようやく止み、火災は下火となった。格納庫のなかは熱湯が渦流《かりゆう》を作り、機関科の入り口附近は、腰までつかる水の深さとなっていた。その熱湯のなかを四肢や首のない屍体が流木のように浮いていた。赤黒く焼けただれた屍体は、さらに熱湯に煮られて、白っぽく変色し、蛹《さなぎ》の肌のようにぶよぶよになり始めていた。ガソリンや硝薬の臭いにまじって、肉の煮える異臭が、生存者の鼻をつき始めていた。
橋本は息のつまる思いでそれを見ていた。多くの人間が死んでゆき、自分が生きていることが、僥倖《ぎようこう》の上に成り立っていることが理解された。彼のそばで、泣く声が聞こえた。新しく少尉になって乗艦したばかりの古田という若い航海士であった。
「どうしたんだ! 泣くな!」
橋本は不機嫌になって、冷たく言った。
「御真影が……。行けないんです……」
古田は、副長から艦首に安置してある御真影を持って来いといわれたが、熱湯と火に妨げられて行けないので、その旨を報告すると、何を気の弱いことを言っているか、と叱られたので、進退に窮し、泣き出したのであった。
「そうか、まあ、よし、大丈夫だ。心配するな」
橋本は、そう言って慰めながら、肩を叩いてやった。古田はしゃくり上げながら泣き続けていた。
間もなく、下弦の月が上がって来た。
飛竜は左に二十度ばかり傾斜したまま、西に向かって走っていた。艦橋からは士気を高めるため、「二十八ノットで日本へ帰れるから火を消せ」と信号兵が、メガホンで連呼し続けていた。月は陰惨な屍体の群を蒼白く照らしていた。
山口と加来は、防火の直接指揮をとるため、飛行甲板におりて来た。前部と後部の連絡をつけて、防火のホースを通すため、下部甲板の防水扉をひらかせたところ、火は通路に燃え拡がり、通信室から艦橋に延焼した。山口、加来、鹿江らの幹部は、後甲板に移動した。
この頃、長良にあった南雲長官は、次の命令を発した。
一八三〇《ヒトハチサンマル》(午後六時半)我、飛竜ヲ掩護シ、北西方ニ避退中、速力十八ノット。
しかし、この頃には、飛竜のスクリューは事実上回転を止めていた。
梶島たちの努力にもかかわらず、罐室に火が入って、蒸気が来なくなったので、タービンが回らなくなったのである。
機械室と艦橋との連絡も途絶《とだ》えていた。
間もなく、電灯が消えた。
「発電機室に火が入ったな」
梶島は強《し》いてつぶやくように言った。
発電機室員が退去したのかも知れなかった。しかし、艦橋の命令がないうちに持場を離れるわけにはゆかなかった。伝声管で何度艦橋を呼んでも返事はなかった。かすかな唸り声と震動が伝わって来るだけであった。それが艦橋の燃える音であった。
停止した飛竜に駆逐艦風雲が近よって来た。火はまだ盛んであった。駆逐艦のホースでは水が届かないので、飛竜の長いホースが欲しかった。鹿江副長は、ホースを探す決死隊をつのった。後甲板には、探し集めて来た数箱のハービス(乾パン)と、オスタップ(洗濯桶)に数杯の清水があった。いまとなっては貴重な糧食であった。被弾してから、ほとんどの乗員が何ものどに通していなかった。
鹿江は、決死隊に出る者には、五個のハービスと、コップに一杯の水を与えることにした。十名ばかりの兵が、水を呑み、ハービスをかじりながら、ホースを探しに下甲板にもどって行った。鹿江は防火の指揮を続け、加来は駆逐艦との連絡にあたった。何もしないで、横合いから出て来て、ハービスをボリボリ食う男がいた。山口がそれに気づき、
「おい、このビスケットと水は決死隊用の最後のものだ。お前もホースを探して来い。何もしないで食おうと思うな」
と冷静な声でさとした。その兵は、しょんぼりして、食いかけのハービスを箱の上におくと、姿を消した。山口は、ハービスと水の前に立って番をし始めた。航空戦の鬼とうたわれた二航戦司令官も、いまはビスケットの番が役目であった。
オスタップの中で、月光を映じながら揺れている澄明《ちようめい》な水を見ている内に、山口は渇きを覚え始めた。のどの奥がからからになって、つばも出て来なかった。先刻注意を与えた手前、彼一人勝手に呑むわけにもゆかなかった。——おれも決死隊を志願して、ホースを探しに行こうか——と考えたが、それも不自然のようであった。彼は、ぼんやり、そのオスタップの水に映った自分の顔を眺めた。煤《すす》で汚れていたが、憔悴しているようにも見えなかった。月光がちらちらと鼻のあたりを洗っていた。——司令官も不自由なものだ——そう考えていると、間もなく、ホースを探した五名ばかりの決死隊が勢いよく帰って来た。彼らは当然のようにハービスの新しい箱をあけ、オスタップにコップをつっこんで、水のしぶきをとばした。鹿江も戻って水を呑み始めた。山口に気のついた彼は、「あ、司令官……」と自分のコップをさし出した。
「呑んでもいいかね」
自分だけに聞こえるような低い声で言いながら、山口がコップを受けとろうとしたとき決死隊の兵に便乗して、附近にいた兵たちが、ハービスをかじり始めた。
「こら、決死隊以外の者は、食っちゃいかん!」
山口は自分の手をひっこめて、怖い顔をしてみせた。
「いや、少しずつやりましょう。今、決死隊が糧食庫をあけて、罐詰とビールを持って来るそうですから……」
鹿江がそう言って、山口にハービスを差し出したが、
「いや、ぼくはいいんだ」
山口は手をふって、受けとらなかった。鹿江はけげんそうな顔をしたが、——ああ、そうか——というように、肚のなかでうなずいて、それ以上はすすめなかった。そこへ、七人ばかりの兵が、「わっしょい、わっしょい」とかけ声をかけて、ビールと罐詰の箱を運んで来た。加来が戻って来て、短剣の剣帯の止め金でビールの栓を抜くと、
「司令官、いかがですか、一杯……」
とすすめた。
「いや、ぼくは水の方をもらおう……」
山口は低くそう言ってから、
「おい、決死隊以外の者も少しずつ来て、腹をこしらえろ」
と、あたりに言った。
ぞろぞろ兵が出て来た。やけどしたものが多く、服が破れ、焦げて、みじめな服装をしていた。山口はそれらの兵と、オスタップの月影とを半々に見ながら、コップの水をゆっくりのどに通した。何時間ぶりであろうか、——みじめなものだな、司令官といっても、敗ければ、漂流の漁夫と変わりはない——そう考えながら、のどをゴクゴクと動かしたが、水はやはりうまかった。旱天《かんてん》の砂地が雨を吸うように、キューッと全身に吸いとられて行った。
そのような光景を眺めているうちに、橋本は、無性に眠くなって来た。大きくめくれた鉄板の陰に入って、横になった。彼の眼のふちには、タールに似た黒い粘液がコパコパにこびりついて、どうこすってみてもとれなかった。それが眼に沁みて、開けても閉じても痛みを訴えるのだった。
朝の攻撃で負傷し、右足首を切り落とされた艦攻分隊長の角野博治大尉は、前部の士官室から、最後部の居住区に移されていた。二人の軍医官は、上部がだんだん焼けて来るにつれて、落ちつかなくなった。
「おい、ここまで焼けて来たら、どうする?」
「そうだな、舷窓《げんそう》から海へとびこもうか」
二人の会話を聞くと、角野はむくりと半身を起こして言った。
「おい、おれをどうしてくれるんだ?」
角野はひどくのどがかわいたので、衛生兵に水を頼んだ。衛生兵の一人が、酒保《しゆほ》からビールを見つけて一箱かついで来た。角野は、壁に口金をぶっつけて割り、がぶがぶ呑んだ。瓶の割れ目で唇を切った。かなり熱しており、泡がひどく出たが、のどにはうまかった。やがて、彼は眠り始めた。突然、彼はとび起きて、右足のほうたいを解き始めた。軍医官はびっくりして、彼のそばに駆けよった。彼は気がついて解くのをやめた。彼は夢のなかで、素晴らしい贈り物をもらったので、その包みをあけにかかったのであった。熱されたビールは、重傷者の脳にそのような影響を与えたのである。