ミッドウェー島砲撃の命令を受けていた伊号百六十八潜水艦の田辺弥八艦長は、午後十時半、浮上して、ミッドウェーに近づき、サンド島に六発の十サンチ砲弾をぶちこみ、病室で左肩の治療をしていた、映画監督ジョン・フォードの夢を破った。いよいよJAPが上陸して来る、という流言が島を蔽った。このため、海岸に近づいた不時着搭乗員の一部が、味方の機銃によって負傷した。ジョン・フォードは、敵が来たら、最後まで戦うつもりで、拳銃の安全装置をはずし、枕元においた。
「総員集合!」の声に、橋本は眼をさました。母艦に別れを告げて、総員退艦の時期が近づいていた。機関は停止していた。ボイラーに火が回ったのであった。
「機関長は戦死したらしいです。連絡は不能になりました」
機関参謀は、山口多聞司令官にそう報告した。先刻から、三回にわたって、決死隊を出して、機関科に総員退去を連絡させたのであるが、熱湯と、ハッチが熔けてひらかないため、連絡は不能であった。通気孔から火焔や有毒ガスが入るので、被害は大きいと思われた。
「仕方がない。私と一緒に行ってもらうんだな、相宗《あいそう》君も、そのほかの人たちも……」
山口は、低い声でそう呟いた。
「各科長、艦橋の下に集まれ!」
伝令がそう叫んで歩いた。
飛行長、整備長、砲術長、航海長、主計長、軍医長などが艦橋の下の焼け残った鉄板の上に集まって来た。物かげにいた兵が、ぞろぞろ出て来て、五百名ばかりが、艦橋の附近に整列した。負傷した角野も担架で運ばれて来た。
山口と艦長、加来《かく》止男大佐は、少しはなれたところで、先刻から問答を繰り返していた。
「司令官、あなたはお帰り下さい。そして再建をやって下さい。あなたは大切な人です。本艦の責任は、私一人残れば十分です」
加来は、かなり強い口調でそう言った。
「いや、私はいいよ、私はもうこのへんでいい。蒼竜もやられたし、飛竜がだめになったら、二航戦の司令官も用事がなくなった。私が帰ったところで、やれることは知れている。私は残るから君は帰りたまえ」
「いや、艦長が艦を沈めて、逃げ帰るというわけにはいきません」
加来は唇を噛んだまま、司令官の顔をみつめた。残るのが是《ぜ》か、帰って再度のご奉公を期するのが、本当の軍人の道であるのか、彼にも迷いはあった。しかし、艦長が艦と運命を共にするのは、英国海軍以来の伝統であった。マレー沖海戦で、イギリスの戦艦、プリンス・オブ・ウェールズ号が撃沈されたとき、司令官と艦長が、「ノー・サンキュー」と部下のすすめをことわり、艦と運命を共にした話を彼は聞いている。彼の長い海軍生活で、艦を放棄した艦長が、どのような余生を送ったかを彼は知っていた。無惨な死に方をした多くの部下のことを思うと、謝罪の意味でも、運命を共にしたい気持が強く働いていた。——ここで死のう。それが、おれの人生にとって、最良の死に方なのだ——彼は自分にそう言って聞かせた。
山口は平静であった。若い時結婚した妻と死に別れ、再婚して間がなかった。しかし、三十年の海軍生活の間に、愛情も執着も軍人として、別のところで思考するように、自分を鍛え続け、その思考法は、今、この艦上で死ぬことによって、完璧な結論を得るはずであった。月光に照らされている屍体や、まだいぶっている白煙などによって、彼はすでに半身を死の世界にひたしつつあった。十分に戦ったという満足に似たあきらめがあり、それを自分の死によって、完全なものにしたかった。
さまざまな意味において、彼はティピカルな海軍軍人であり、日本の武人であった。彼が死んでゆくことが不幸であるとするならば、それはその発生の根本において、萌《きざ》しているものに違いなかった。
そのころ、後方の大和の艦橋にも月光がさしこんでいた。山本は海面を見おろしていた。月光なのか、夜光虫なのか、波頭に砕け散る青白い光があった。大和は速力を落としていた。——参謀たちの頭も冷えて来たようだ——と彼は考えた。午後四時半、蒼竜の沈没と同じ時刻に、彼は、夜戦による攻撃命令を発していたが、それは必ずしも、彼の本意ではなかった。まず、夜戦によって決戦を行おうと東進している南雲部隊や、若手の参謀を抑えることの困難を、彼は知っていた。次に、戦局を収拾する方法を彼は摸索していた。被害の状況と共に、敵の残存兵力と、その動きを知るべきであった。
しかし、巡洋艦長良にいる南雲の司令部は、飛竜の被害甚大なのを知って、夜襲をあきらめる気運が濃厚となって来た。飛行機では一時間の距離でも、軍艦では数時間はかかる。スプルアンスの空母二隻は、東へ避退しつつあった。空母と駆逐艦はほぼ同じ速力である。夜明けまでに魚雷戦を敢行出来なければ、六日午前には、また空襲によって、数隻が炎上する計算である。
撤退するにしても、山本は逃げながら戦局を収拾することはしたくなかった。前を向いて、進撃しつつ、実情を確かめ、その上で、と考えていた。
作戦室に入っていた、宇垣参謀長が紙片を手にして、艦橋に姿を現わした。
「やっと意見がまとまりました」
彼は起案した長官命令の電文を差し出した。山本は懐中電灯のあかりでそれを読み、うんうんというふうにうなずいた。
午後十一時五十分、次の命令が大和から全軍に打電された。
一、「ミッドウェー」攻略ヲ中止ス
一、主隊ハ、攻略部隊、第一機動部隊ヲ集結シ、六月七日、午前、北緯三三度、東経一七〇度ニ至リ、補給ス(後略)
補給地点は、攻撃命令を出した地点よりも百マイルほど西に当たる。大和は大きく変針し、連合艦隊は、反転して日本へ針路をとることとなった。
三百マイル東方にあった長良の艦上で、この電文を見た南雲は、艦橋をおりると、司令官公室に入った。草鹿が足をひきずりながらあとを追った。長官の肩が落ちているのを彼は認めていた。長官の短剣には、真剣が仕込まれているのを、彼は知っていた。公室に入ると、草鹿は、南雲に言った。
「長官! もう一度やりましょう。GF長官にお願いして、仇討ちをやらせてもらいましょう。それまで、軽挙は御無用に願いますぞ」
「うむ……」
と南雲はうなずいた。灯火は暗く、うつむいているので、表情はよくわからなかった。
「長官!」
草鹿は、南雲の肩をつかんでゆすぶった。
「わかったよ、一人にしてくれんか……」
南雲が呻くように言った。
草鹿は、うなずくと、南雲からはなれ、扉をあけた。
飛竜の艦上では、一つの和解が進行しつつあった。押し問答の末、山口と加来は、二人とも、艦に残ることになった。沈黙がそれを相互に了解させあった。
話が決まると、加来は、かたわらにいた橋本に拳銃を貸してくれるように頼んだ。パイロットは出撃の前に、いざというときの自決用の拳銃を首にかけて行くので、橋本はまだそれをかけている。橋本は副長の顔を見た。鹿江は怖い顔で顎を横に振ってみせた。橋本がためらっていると、
「なあ、いいだろう……」
なだめるように言って、加来は、橋本の首から拳銃をはずした。
山口と加来は、参謀や、各科長と別盃をかわすことになった。ビールはもうないので、山口が先刻番をしていた、ハービスと水で別盃を行うことになった。若い甲板士官がニュームのコップや帽子に水を注《つ》いで回った。橋本も、自分の防毒面の隅にそれを受けた。山口と加来も、コップに受けて呑んだ。橋本はハービスを食った。うまかった。
「艦長!」
突然、艦長附だった若い甲板士官が泣き出した。誰も止めなかった。彼はしゃがむと、水の入った帽子を顔に当てて、おいおい泣き出した。涙のまじった水が、頬を伝った。加来は何も言わなかった。
別盃が終わると、山口と加来は士官一同と握手をかわした。二人は握手をかわしながら、橋本の前に来た。
「おう、橋本君か、朝から御苦労だったな。その甲斐もなく、母艦をこんなことにして、まったく申し訳がない、許してくれたまえ」
山口が橋本の手を握った。太い指に毛のもじゃもじゃ生えた堅い掌であった。“航空戦の鬼”の指であった。橋本は声が出なかった。
加来が回って来た。
「橋本君、いろいろ有難う、よくやってくれた」
加来は、力強く橋本の掌を握った。橋本は一カ月半ばかり前、試験飛行に出て着艦に遅れ、艦長になぐられたことがあった。懐しい掌の感触であった。
「艦長……」
と言ったが、あとは声が出なかった。これから艦と一緒に沈んでゆこうという人に、何か言おうと思うのだが、言葉が見当たらなかった。加来は、月光を背中に浴びていた。頬が青白く冴え、表情はよくわからなかったが、硬い顔には見えなかった。
「司令官!」
別の方角から、若い声が呼びとめた。司令官附の従兵、森本一水であった。
「おう、森本か、随分世話になったな。元気でやってくれ」
山口は、ふりむいてそう言うと、火の消えた前甲板の方に歩き始めた。
「司令官!」
森本がもう一声叫んだ。山口は、もうふりむかなかった。
いつの間にか、六月六日に入っていた。
飛竜の「総員退去」が下令されたのは、六日の午前零時十五分であった。五百余名の乗員は、鹿江の指揮で、分隊番号順に整列し、後甲板から駆逐艦のランチに移り始めた。
山口と加来は、二人並んで前甲板を散歩していた。焼けた甲板に、月影が落ちた。艦首までゆくと、回れ右をして、艦橋の方に向かった。橋本の方からは、黒いシルエットに見えた。そのシルエットがだんだん小さくなり、ランチが駆逐艦に着くころ、シルエットは艦橋に消えた。
人力操舵によって、ハワイの方に航行し、その副産物として、蒼竜の藤田大尉を救出する役目を果たした赤城も、午前十一時すぎには火焔が通風孔から罐室に入り、ボイラーが活動をやめ、エンジンもストップとなり、漂流の状態となっていた。
山本は榛名によって赤城を曳航する意志を持っていた。このため、艦長が必要であり、艦長の青木泰次郎大佐は一旦、艦首の錨甲板の柱に自分の体をしばりつけたが、考え直して、部下のすすめをいれ、駆逐艦嵐に移って様子を見ていた。
山本が作戦中止後間もなく、赤城の曳航不可能と判断し、赤城の処分を第四駆逐隊に命令したのは、六日午前一時五十分であった。先に、漂流していた戦闘機の藤田怡与蔵をひろいあげた、嵐の水雷長、谷川が魚雷を発射することになった。
このとき、嵐の艦橋には、赤城艦長の青木大佐がいた。「赤城ヲ処分セヨ」という命令が大和から届いたとき、青木は嵐艦長の渡辺中佐に言った。
「おい、もう一度赤城に移してくれい。今度は本当に、艦と運命を共にするんだ!」
「………」
渡辺艦長は、青木大佐の顔をじっとみつめたきり、何も答えず、水雷指揮所の谷川に、
「雷撃始め、目標赤城!」
を令した。
「右魚雷戦、右三十度、赤城……」
谷川は号令をかけながら、奇妙なものが、胸元にこみあげて来るのを押えかねていた。彼が実用の魚雷で艦を沈めるのは、生まれてはじめてであり、その目標が赤城であった。
艦橋では、青木が、渡辺の肩をつかんでいた。
「渡辺君! 武士の情だ。行かしてくれんか」
「………」
しかし、渡辺は答えなかった。——私が艦長です——とその顔は言っていた。青木を赤城に戻すことを無意味である、と彼は判断したのである。
「発射始め!」
一本の魚雷が発射管から射ち出された。しばらく艦橋は沈黙した。
バガーン!!
激しい震動が海面を伝わって、嵐の舷側を打った。
「おれの赤城だ。おい、貴様」
渡辺につかみかかる青木を、副長たちが取り押え、艦長休憩室に連れこんだ。(この頃帝国海軍では、艦長は必ず艦と運命を共にするということになっていたので、青木大佐は内地帰還後、同年十月予備役に編入、即日応召、陸上勤務を命ぜられた)
嵐に続いて、野分《のわけ》、舞風、萩風も発射した。赤城は魚雷四本を受け、四百人の機関科員を艦底に抱いたまま、午前二時すぎ、海底への道を辿った。
飛竜への雷撃は、午前二時十分、赤城が沈み始めたころである。第十駆逐隊の巻雲が担当した。二本発射したうち、一本が命中し、母艦は、艦首から水につかり始めた。しかし、駆逐艦が現場をはなれた後も、飛竜はまだ浮いていた。
魚雷の命中音が艦体をゆるがしたとき、機械室にいた梶島は、相宗に言った。
「機関長! こりゃ、以前のような爆弾とは違いますよ。魚雷だとすると、沈んでしまいますよ」
「うむ、上へ出てみよう」
相宗は、冷静をとり戻し、落ち着いた声で言った。
梶島は松岡兵曹に命じて、斧、ハンマー、ドライバーを用意させ、上部通路のハッチを破壊させた。ハンマーではききめがなく、太い鉄棒で下からつき上げた。鉄扉があくと、熱湯が流れこみ、松岡はじめ数名が火傷を負った。暗い艦内をさまよい、飛行甲板に出た梶島は、火山の爆発のような廃墟のなかに、死火山のような静寂を発見した。
「総員退艦だ。おれたちをおいてけぼりにしてな……」
若い下士官が、ハンマーで鉄板を叩いた。空虚な音が口をあいた格納庫の内部にこだました。艦は前部から沈みつつあった。梶島たちは、もち上がった艦尾の短艇甲板からカッターを二隻おろした。一隻は水面を叩いて壊れた。二十メートル以上下の海面に向かって四十五人の機関科員が飛んだ。海面には月光があり、落下する途中で、梶島は、かぐや姫が月よりも高く飛んだという話を、ちらと思い浮かべた。
カッターにたどりついた機関科員は、相宗以下、しばらくは重油を吐くのに忙しかった。