日本人はいつも「何か」をしたがっている。
日本語の「休暇」という言葉の中には、「どこかへ出かけて何かをする」または「何かをするためにどこかへ出かける」という含意があるらしい。夏のホリデイの季節になると、全国各地の名所旧跡、各観光地、何とかランドと、どこも人で一杯になってしまうのは、その現れである。で、「何もしないためにどこかへ行く」という人は極めて希有《けう》である。
しかし、と私は考える。
私の家では、休暇は原則として「何もしない」ことにしている。
私はまず酒を飲まない。だから酒に酔うことで心を休めようなどという考えは全くない。つねに正気のままである。そのうえゴルフもしなければ、テニスもスキーも、碁将棋も、何もやらない。それで、たいてい夏には信州の山荘につれづれと籠《こも》り居て、時に、思い立って子供たちと一緒に、日帰りで日本海へ海水浴に行ったりする。また、春には近場の温泉に出かけて、ごろごろして帰ってくることはある。が、ただそれだけである。
それゆえ、さーて、夏休みの計画はどうしよう、などと旅行案内書をひっくり返し、ツーリスト会社に相談し、などということは全くない。ほとんど何も計画しないからである。
もうずっと昔、まだ学生だった時分には、私は一夏じゅう信州に隠居していた。そして時には冬も、とにかく学校の休みの時期にはいつもこの山奥の山荘にいて、棹《さお》の先の赤《あか》蜻蛉《とんぼ》を眺《なが》めたり、前面の山を絵に描いたり、ただそこらを歩き回ったりして過ごした。
さすがに大学院に進んで学問に精出すようになると、同じく山籠りをしていても、毎日勉強ばかりして暮らした。そのうち、結婚して子供が生まれた。
私が、林間緑蔭の座敷の座卓で研究をしていると、よちよち歩きの息子がいつも隣に並んで「べんきょう」するのだった。自動車の絵を描くベンキョーをしていたのである。私は時々研究の手を休めては、息子に自動車の絵を描いてやった。勉強に倦《う》むとそのまま寝ころんで昼寝をした。空に雲が浮かんでいた。
夏休みはいつもそうして過ぎていった。
やがて一家でイギリスに住んだが、この時も私は研究に忙しくて、ほとんどどこにも行かなかった。僅かに数日間スコットランドへ旅行したが、ただボンヤリと行って帰って来ただけである。しかし、イギリス人は、休暇というとどこか田舎の家を借りて、何もせずに過ごすのが当り前である。悠然《ゆうぜん》として何もせずにいること、それが豊かであるということなのだ。だから私たちの休暇はイギリス的なのだった。
その息子も大学生に、下の娘は高校生になった。二人とも日頃はよく勉強するけれど、暇な日は何もしないで、漫画を読みつつだらだらと寝そべったりしている。それを見てこの子らの父と母は、ウフフフフと思うのである。