「夢はいつもかへつて行つた 山の麓《ふもと》のさびしい村に……」
と夭折《ようせつ》の詩人|立原道造《たちはらみちぞう》は詠《うた》っている。信州の浅間高原がそのモデルであるに違いない。私が「ふるさと」という言葉を思うとき、いつもこの詩編が脳裏をよぎる。
私の家は、もう江戸時代から今の東京に住み、親類も一切東京にあって、いわゆる「郷里」という意味での「ふるさと」は、この東京以外にはまったく存在しなかった。夏休み、とりわけお盆の頃になると、クラスの友達はたいてい「田舎に行くんだ」と言って、お父さんかお母さんかの郷里へ行ってしまったものだったが、私たちはどこにも行くところがなかった。父は、それゆえ、もう四十年近く前に、「ふるさと」を作るのだと言って、信州の北アルプスの麓、高瀬川《たかせがわ》の渓谷に小さな山荘を造った。当時はまだ、高速道路などどこにもなく、中仙道《なかせんどう》や甲州街道といった主要国道でさえ、ほとんどまったく舗装されていない砂利道だった。もうもうたる砂塵《さじん》を上げて、その砂利道の国道を走り、山を越え、盆地を抜け、また峠を越え、野を行き、行き行きて信濃大町のその山荘にたどり着くまでには、延々十二時間近い時間がかかったものだった。
それまで蒸し暑い東京の夏に慣れていた私たちは、しかし、信州の冷涼な山荘にたどり着くと、体の隅々《すみずみ》まで新しい空気に満たされるような心地がして、それはなにものにも代え難い快さだった。父自身は仕事でそう長く滞在はできなかったけれど、やがて私たちはいつも夏の間はその涼しい川辺の山荘で過ごすようになった。
ずっと後に、イギリスに行くようになって、そのイギリスの夏を経験すると、世界中にこれほど気持ちのよい夏はまたとないのじゃないかと思った。が、考えてみると、あの信州の夏は、じっさいイギリスの夏とよく似ているのだった。緯度の違いで、イギリスのように「いつまでも暮れない長い長い夕暮れ」こそなかったけれど、乾燥した空気、涼しい風、朝のひいやりした葉末の露、行く雲、豊かな自然、そのどれもイギリスと信州に共通した美質である。明治の初めに日本にやってきたイギリス人が、暑い東京の夏に閉口して、浅間山麓《あさまさんろく》軽井沢に、彼らにとっての「ふるさと」を発見したというのは、けだし当然のことだと思われた。反対に私は、イギリスの風土の中に、私にとっての「ふるさと」信州の、風や雲を発見したというわけである。
今でも、イギリスへ行かない夏は、私は必ず信州で過ごす。東京の熱帯的な夏は我慢の限度を超えている。こういう所ではとうていものなど考えることは不可能である。夏が近付くと、イギリスか信州の山河か、私の心はいつもそのどちらかへ帰って行くのである。
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