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テーブルの雲08

时间: 2019-07-30    进入日语论坛
核心提示:夕暮れ巴水 何年か前の夏、大英博物館の日本ギャラリーでは、日本の木版画の通常展示をやっていた。その近代日本木版画を代表す
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 夕暮れ巴水
 
 
 何年か前の夏、大英博物館の日本ギャラリーでは、日本の木版画の通常展示をやっていた。その近代日本木版画を代表する画家として数点を掲げられてあったのは、川瀬巴水《かわせはすい》であった。私は昔から巴水が好きで、彼の作品を見ていると、そこに何とも言えぬ懐《なつ》かしさというか、深く豊かな風趣を感じずにはおられない。そうして、こういう感性はたぶん、日本でよりも外国で広く受け入れられるのではないかと、漠然《ばくぜん》と考えて来た。この展示の責任者はクラーク君という若き俊英だったが、国貞《くにさだ》を主とする浮世絵版画の専門家たるクラーク君は、しかし、多くの巴水作品を前にして、どうも浮かない表情を示した。そうして、「林さんは、こういうのが面白いと思いますか?」と訝《いぶか》しそうに尋ねるのだった。
 私は答えた。「ああ、僕はとても面白いと思うよ、もっとも、大英博物館にあるのは巴水の作品としてはあまり上出来のがないけれどね」
 彼の目にはしかし、巴水の版画は一種のマンネリズムと映っているらしく、結局「面白くない」という意見に終始したのである。大英博物館の所蔵する巴水作品は、どういうものか色調の明るい単調なものが多く、これだけ見てはたしかに巴水は面白からぬというのももっともな気がした。それから間もなく、アメリカのS博士とクラーク君と三人で話をする機会があった。その時、S博士が吉田博の画業に触れ、率直に「もうあれにはウンザリですよ。どれ見たって同じ。ま、いわゆるポスターアートでね」とにべもない見解を述べた。吉田の版画にはたしかにそういう精神性の浅さがあって、奇麗なだけの装飾画といわれても仕方がない。そのとき、クラーク君が「林さんは巴水が大好きなんですよ」と言った。すると、S博士は苦笑いを浮かべながら、「まぁ、それは吉田よりはずっとマシですがねぇ……」と語尾を濁した。つまり、彼らはいずれも巴水の版画をそれほど高くは評価していない、ということである。
 どうしてだろう、私はそこに一つの問題点を見る思いがした。マンネリズム? それはそうかもしれぬ。しかしどうであろう、浮世絵版画というものは、そもそもそれ自体偉大なるマンネリズムの世界ではなかったか。歌川派の、葛飾《かつしか》派の、そのどれをみても、絵をある一定の型の中で捉《とら》えていこうという態度には変りがない。巧拙は無論あるにせよ、だいいち同じ名前を何代も襲名していくこと自体、そのマンネリズムの制度的表明なのだ。そういう浮世絵としての形式主義には目をつぶって、巴水らの風景版画についてのみその類型性をうんぬんするとしたら、それはたしかに偏《かたよ》った見方である。たぶん、彼ら西洋人の目に映る浮世絵は、その圧倒的なエキゾチシズムに有無を言わせぬ力があったのである。それはかのジャポニスム運動とヨーロッパの印象派の関連を思えば容易に想像がつくに違いない。それゆえ、そういうエキゾチシズムからの脱化を目指した巴水らの新しい版画については、彼ら日本絵画の専門家は、専門家であるがゆえに、急に覚めた視点で見てしまうのではなかったか。
 さて、巴水は明治十六年五月十八日、東京芝の組糸屋の長男川瀬文治郎として生を享《う》けた。彼自身は幼少から絵を描く事を好み、画家になりたいという希望は早くからきざしていたが、家業の桎梏《しつこく》はそれを許さなかった。そのことが彼の一生を決めたのだともいえる。というのは、後に家業が傾いて終《つい》に破産におよび、結果として彼がその制約から逃れた時には、既に二十六歳になっていた。それまで親の目を盗んでランプの光で錦絵《にしきえ》の模写などに出精していたことが一方で彼の視力を著しく損なうもととなり、他方またその年齢は日本画家として本格的な勉強を始めるには晩《おそ》きに失していたのである。それゆえ、彼は鏑木清方《かぶらぎきよかた》に入門を乞《こ》うたが、その年齢の故に日本画の勉強にはおそすぎると断わられ、むしろ洋画を学ぶべきことを諭された。それによって彼は俄然《がぜん》白馬会洋画研究所に通うて洋画の写生を学んだという。この過程で、彼が洋画の遠近法や、空気の把握の方法など技術的なことを獲得しただろう事はもちろんとして、また、ジョン・ロバート・カズンズなどを先達とし、やがてターナーやコンスタブルらによって大成される西洋風景画の作品に接することが出来ただろうと推量されるからである。
 こういう迂路《うろ》を経由して、しかし、彼は終に鏑木門下の郷土会に席を連ねることを許される。これが第二の出発である。ここで、鏑木門下の俊英伊東深水の木版画を目にしたことが、彼に木版風景画家としての道を開かせる。すなわち彼は自信のある風景写生を携えて、渡辺版画店の門を叩《たた》き、後に一生の美術プロデューサーともなる渡辺庄三郎に巡り合うのである。
 こうして世に出たのが処女作の『塩原おかね路』である。塩原は彼の伯母の嫁入先で、少年の巴水はそこで大変|可愛《かわい》がられたといわれる。自然、彼はこの塩原に懐かしい床しい気持ちを抱いていた。それがこの作品を趣深いものにしているのであろう。
 ところで、この作品について、巴水自身は「私はフランス人でカットをかいている人(誰だか忘れた)の線をとり入れた」と述べている。それが誰だかは分らないが、事実アールヌーヴォ風のくねる線やうっとりと疲れたような色彩感が漂っているように思われ、日本的な風景画家巴水の出発点における、ヨーロッパ絵画の影響を思わずにはいられない。そういう個々の影響は別にしても、もっと大切なことは、彼が「風景」というものをどう見たかという、その一番根幹のところで、ヨーロッパ近代の風景画の介在を想定してしかるべきだろうと思うのである。すなわち、それ以前の浮世絵—錦絵の系譜の中で、風景画というものは何をテーマとして来たか。たとえば『富嶽百景』に代表されるように、「名所旧跡」「風光|明媚《めいび》」がそれであった。それに尽きていたといっても良い。しかるに、イギリスをはじめとするヨーロッパの近代風景画の潮流は、とりわけコンスタブルなどに著しいように、何でもない景色、日常の空間にこそ究極の風景美があることを教えたのである。私が巴水の風景画について、最も大きな魅力を覚えるのはここである。
 続いて発表された『東京十二題』はその意味での見事な結実といってよいが、例えば『夜の新川』にしても、そのどこに「名所」や「風光明媚」があろうか。ここにあるのは川辺に建つ二|棟《とう》の蔵とその間の夢のような光(自注によればガス灯の光)である。それで、日本の懐かしい美しい風景を、日本人なら誰でも茫然《ぼうぜん》とするような造形と色彩で描き出した。しかもその光と影のあわいはかのレンブラントなどを彷彿《ほうふつ》せしめる。
 巴水の成果の最大のものは、その空や水の色彩である。これは刷り師との綿密な討議によって編み出されたものに違いないが、そのタブローとしての感性はかかって巴水の功績に帰せらるべきであろう。
 ところで巴水は明るい人なつこい性格で、江戸っ子らしい洒脱《しやだつ》な風も持ち合わせていたが、一方でいつも何かこう淋《さび》しい無常観のようなものにつきまとわれてもいたらしい。それは彼が子供に恵まれず、命とも頼む写生|帖《ちよう》百八十八冊を震災で焼いてしまったりして家庭的には必ずしも幸福ではなかったことと関係があるかもしれない。しかし、たぶん彼の心の中には、永井荷風がそうであったような、近代の都会人の喪失感のようなものが本質的に横たわっていたのだろうと私は推量する。『新大橋』の雨に打たれる人力車の灯、『明石町の雨後』の波止場にたたずむ犬や遠景の煙突の烟《けむり》、『小樽《おたる》の波止場』に肩を寄せる二人の男……ああ、どれもこれも淋しいアンニュイが横溢《おういつ》しているではないか。それは詩で言えば萩原朔太郎《はぎわらさくたろう》の世界に近い。
 ところが面白いことに、彼は極端に近眼であったために、遠くの景色は良く見えなかったらしい。しかもそのため、夜はまったく筆を取らなかったと伝えられている。にもかかわらず、彼の作品には、圧倒的に夕暮れや宵闇《よいやみ》の風景に秀作が多く、昼間の景色や美人画などは、遺憾ながら魅力に乏しい凡作に終始しているのである。それは例えば『ゆく春』や『元箱根見南山荘風景集』などを見れば一目にして明らかである。しかし、彼には風景画の天才が具《そな》わっていた。視力の弱小を補う為《ため》に、風景の細部に亙《わた》る厖大《ぼうだい》な写生をものし、それを西洋画的な構図と日本的な色彩でまとめ上げるという類稀《たぐいまれ》な能力を持っていた。『笠岡|之《の》月』に見られるような、殆《ほとん》ど真っ暗な異色の画面の中にしっかりと描きこまれたディテイルを見よ、その屋根の向こうの月白《つきしろ》のかそけさを見よ。ここに風景画家としての巴水の古今独歩の境地が見て取られなければならぬ。或《あ》る意味で、こうした細部までの描き込みが、彼の絵にマンネリズムをもたらしたかもしれないことは否《いな》めぬにせよ、それを棟方志功《むなかたしこう》や恩地孝四郎《おんちこうしろう》らと比較してあれこれと非難するのは間違っている。それよりも、巴水が日本の風景画の新しい局面を開いた、その積極面に人は注目しなければならないのだ。
 思うに、巴水は私たち日本人の心の中にあるあのしみじみとした夕暮れの空気、暮れ泥《なず》む風景の中の寂寥感《せきりようかん》、それをもっとも良く表現した。それは日本的空気遠近法とでも言ったらよかろうか。ともあれ、巴水は、もっとも純粋に日本の夕暮れを、その空気の中の淋しい人々の生活や心までも含めてけざやかに表現した最初で最後の画家だったと私は考える。
 巴水は昭和三十二年十一月二十七日、胃癌《いがん》の為最愛の妻に看取《みと》られて静かに往生した。その絶筆は『平泉金色堂』であるが、ここでもまた、雪の金色堂の淋しい夕景と一人の雲水の姿が描かれている。塩原の夕景に出発した巴水は、平泉の夕暮れに終ったのである。それゆえ、人もし、巴水を呼ばんとならば「夕暮れ巴水」の名を以《もつ》てするのが、もっともふさわしい、私はそう思うのである。
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