もうずいぶん昔のことのような気がするけれど、私は大学院博士課程在学中の二十五歳から三十歳になるまで、慶應女子高校で国語の先生をしていた。教えたのは、もっぱら古文で、他には少しばかり漢文と作文指導を担当した程度だから、まず、古文の先生だったといってよい。
慶應は全員内部進学が原則で、いわゆる受験勉強は考慮する必要がないので、のんきと言えばのんきな授業だった。若かった私が考えたことは、古文といえども、私たちの世界とそして心と一繋《ひとつな》がりのものなのだ。決して、古典文法を覚えたり分析したりするための材料なのではない、というそのことであった。だから、もっとも大切なことはなにかといえば、それは子供たちに「文学の面白さ」を味わわせてあげることである。この信念は今でもまったく変わらないし、変える必要もない。
しかも、古文といっても、それは外国語ではない。私たちの日常の言葉にそのまま繋がっている母国語の文章である。だから、基本的に読めば解《わか》るはずなのだ。解らなかったら、そのところは懇切に説明して解らせてやればよい。それをなにかクイズ式に難しく切ったり貼《は》ったり隠したりしてわざわざ解りにくくして教えるには及ばない。習うより慣れろ、そしてより多く読むこと。
そう思って、私はごく簡単な基礎だけはやったけれど、あとは原則的に文法をまるごと教えるなんてことはしなかった。ま、文法的に難しいところに遭遇したら、そこだけ説明すればそれでたくさんだ。まして古語の活用なぞを暗記させるなんて必要がどこにあるものか。そんな手間暇をかけるくらいなら、そのぶん沢山の作品を読み、もっと長いものを味わい、それで自然に古語の世界に慣れ親しんでいくようにすれば、効果はもっと上がるに違いない。
そう思って、古文の教科書を見てみると、これがいかにも無味乾燥である。せっかくの麗《うるわ》しい文学作品を、あれもこれもと欲張るあまり、どれもみな細切れの断片にしてゴタゴタと羅列《られつ》してある。これでその面白さが感得できたら、天下の奇跡である。したがって、私は、この教科書というものをほとんど使わなかった。そのかわり、自分でせっせとプリントを作って、おのれの信ずるところに従って、もっと面白いテキストを自作していった。
たとえば『平家物語』だったら、この物語の面白さは、主にその栄枯盛衰の大きな「時の流れ」と、そのなかでの小さな人間の営為と哀歓にあるだろう。だから、つまり「宇治川の先陣」なんてのだけをやるのじゃなくて、全体のなかから、一つの流れを抽出して読むということにした。かくて或《あ》る年は「俊寛」だけを追跡して、その一部始終を読む、また或る年は「能登守教経《のとのかみのりつね》」の物語、また或る年は女人哀話のシリーズ、というように、自分でテキストを組み立てて読んだ。そのやり方は、すべての講読作品に及んだので、準備はたしかに大変だった。けれどもその「大変」は、やってて面白くもあり、ためにもなった。もちろん受験ということを考慮しなくてよいという条件は、なによりも有り難いことではあったけれど。
それに、文部省選定の教科書には、ひとつの偏向があった。注意深く「性愛・色恋」のたぐいを除去してあるのである。これを除去しては日本の文学はスカスカの滓《かす》になってしまう。
たとえば、西鶴《さいかく》だったら好色物などはあまり取り扱わない。それで『永代蔵』だの『胸算用』だのが主となる。しかしながら、近世の作品を扱うならば、『好色一代男』などの代表作を避けてはその面白さは味わえない道理である。そこで、私はもっぱら『好色一代男』を読むことにした。
相手は高校一年か二年の女の子ばかりであるが、別段なにの不都合もありはしなかった。思春期の子供たちにとって、愛とか性とかは、大きな関心事である。その関心事を偏狭《へんきよう》な道徳観によって忌避すれば、いきおい古文などは自分たちに関係のない絵空事となるだろう。古文だって、私たちと同じ悦《よろこ》びや苦しみを描いているのだよ、とそう伝えてあげたかったのである。
だから、また『古記事』をやった時でも、日本武尊《やまとたけるのみこと》が尾張の宮簀媛《みやずひめ》と結婚しようとしたときに、折|悪《あ》しく姫が生理になってしまったので結婚を延期したという話など、あえて削除することなく、そのまま読んだ。平然として読んだら、生徒たちも平然として聞き、だれも冷やかしたりはしなかった。
そういうことで、古典は今の私たちと同じ水準に戻ってくるのである。
もっとも、これは相手が慶應女子高校の生徒だったからこそできたことかもしれない。
現在私は東京芸術大学で、やっぱり日本古典文学を専門に教授しているのだが、文学の授業に対する考え方は昔も今も変わりがない。要するに、どうやったら面白く読むことができるか、というそのただ一点である。
私自身、大学では近世文学(江戸時代の小説や詩歌)を専攻していたが、正直いうと、やはり文学としては『源氏物語』や『平家物語』などのほうが面白いと思っている。だから、今は、近世のものはほとんど取り扱わない。『源氏物語』、『平家物語』、『百人一首』が主なところで、それに『松の葉』という元禄《げんろく》期の歌謡集をいくらか読んでいる。そしてそれらの読み方は、作品によって一定でない。
たとえば、『源氏物語』ならば、その「恋愛」の状況、気持ち、歓喜や悲哀、それらの不易なることどもを、ともかく現代のことばで精密に分かりやすく説き聞かせる、とそれに尽きる。つまり、『源氏物語』の面白さ奥深さは、決して決して『あさきゆめみし』なぞと同日の談ではないのだよ、とそれを知らしめたいのである。
いっぽう『平家物語』は、これとは全然違う。『平家』は口承文芸である。目で読んだのじゃなくて、耳で聞いて楽しむ、そういう風に書かれた作品なのだ。だったら、ここは一つ私が琵琶《びわ》法師になって、全体をさっさと読み聞かせようじゃないか。
私は古典の朗読には、ちょっと自信がある。声も謡曲や声楽でおさおさ怠りなく鍛えてある。ともかく、出来るだけ意味が把握しやすいように、正確に区切り、適切に抑揚を施しながら、講釈師よろしく朗々と読み上げる。
学生たちはごく少人数で、それをただ聞いているだけである。それでもしなにか解らないところがあったら、さっと挙手して尋ねてよいが、ほとんど細かな語注には及ばない。だいたいの流れが把握できて、耳に聞いて快いリズムが感得できればそれでよいのである。それが『平家』を読むということなのだ。
こうしてすでに二年間でほぼ全巻読了というところまでたどりついた。この講義には、面白いことに欠席者がほとんどない。
さてまた、『百人一首』はもっぱら古注集成の古典的な方法と、「何が問題であるか」を探させる頭の訓練である。そこらの注釈書をちらちら見て、それで解った気になっちゃ困るよ、ということなのである。で、この三十一文字の小さな世界のなかに、総ての天地・人生が包含されることを学びたい。和歌ったって俵万智《たわらまち》だけじゃないのである。
俳句を読むときは、これは徹底して「イメージトレーニング」である。そこに凝縮されたイメージを、なんとかして生き生きと脳裏に思い浮かべさせたい。
『松の葉』のような歌謡を読むのは、色恋の勉強である。日本の文学が、いかに色恋ばかりで持ちきってきたか、それを知らないと読書が切実にならないからである。
で、これらを一言で言うならば、要するに「文学は|お楽しみ《ヽヽヽヽ》なのだよ」ということ、それに尽きるのである。