外交官にして同時に学者である、とそういう二つの顔を持つことは、イギリスの外交官に通有の尊敬すべき美質であると言ってよい。なかんずく、『神道』『日本文学史』等の驚嘆すべき著述を著したウイリアム・ジョージ・アストンと、それより二つ年下の敏腕外交官アーネスト・メイソン・サトウの二人は、その学問的功績において著しいものがあることは、歴史上特筆に値するであろう。ここでは、そのうち特にサトウの人となりについて、あまり知られていない側面から、いささか光を当てて見たいと思うのである。
サトウは一八六二年(文久二年)に通訳候補生として初めて日本の土を踏んだが、そのとき彼はほとんど日本語を知らなかったらしい。歳《とし》いまだ十九歳で、ロンドン大学を繰上げ卒業して間もないころのことだった。来日後、彼は早速日本語の修得に努めたけれど、時にまだ明治維新までは六年の以前のこととて、役に立つ教科書などは、事実上皆無の状態だった。そのうえ、日本語の先生も極端に少ない状況のなかで、いかに彼らが悪戦苦闘して日本語を身に付けていったか。いみじくもサトウはその著書『一外交官の見た明治維新』(坂田精一訳、一九六○年刊、岩波文庫)の中で述べている。「当時の私たちは一語も英語を知らぬその国の人を相手にして勉強したのだ。文章の意味を知る方法は、小説家のポーが『黄金虫《こがねむし》』の中で暗号文の判読について述べているのと、ほとんど同様のものであった」
そういうふうにして試行錯誤しながら、サトウは天才的素質と超人的な努力によって、瞬《またた》く間に日本語の達人となっていくのである。現在ケンブリッジ大学図書館に保存されているサトウの勉強ノートを見ると、『国史略』『山陽先生行状』『好逑伝《こうきゆうでん》』『日本外史』『江戸|繁昌記《はんじようき》』『孟子《もうし》』『近世|野史《やし》』『通議』『日本紀神代巻《にほんぎじんだいかん》』『土佐日記考証』等、まことに多方面に及んでおり、しかもその多くが漢文体の書物であることに注目したい。それも、一八六五年(慶応元年)から一八七二年(明治五年)までの八年間にわたって殆《ほとん》ど毎日、営々として学び、孜々《しし》として努めている有様には、まったく感心させられる。ことは、隠居の道楽ではないのである。この幕末維新の多端な難局に対処して、日々外交官としての息つく間もない激務をこなしながら、その業余の勉強であることを思うと、この人は、げに並の人ではなかったのだということが痛感される。
『一外交官の見た明治維新』によると、サトウは最初|御家《おいえ》流の毛筆を習ったが、暫《しばら》くしてそれが商人用の通俗な書体であることを知り、やがて高齋単山《たかさいたんざん》という先生について端正な唐様《からよう》の楷書《かいしよ》法を学んだとある。つまり、サトウは御家流と楷書の両様を書き分けることが出来たのである。
その勉強の初期に彼がノートに書き付けたペン書きの日本字を見ると、決して上手とは言われない「外人流」に過ぎないのだが、そこから飛躍して、書道を修めるというところに奥深い知日家としてのサトウの面目が窺《うかが》われようというものである。
明治十年に至って市川清流という人が『標註|刪修《さんしゆう》古事必読』という書物を出しているが、その巻頭にサトウが墨痕《ぼつこん》も鮮やかに「益詞美雋《えきしびせん》」という毛筆の題字を揮毫《きごう》している。それには「英国静山書/Ernest Satow」と署名があって「薩道氏」「静山」という印が押されているのである。さすればサトウは「薩道・懇」という名乗りの他に、「静山」という号をも持っていたのである。
これがただの道楽でないことは、彼が残した夥《おびただ》しい毛筆の文字をみれば分る。たとえば、サトウは生涯《しようがい》におおむね五万冊に及ぶ日本古書の大コレクションを作り上げたが、その上に、自ら筆を取って、三たびその蔵書目録を編んだ。その文字はいずれも雄渾《ゆうこん》で、とても外国人の筆跡とは信じ難いのであるが、これなど、その便宜からいえば、ペン書きにするほうが遥《はる》かに簡単だったに違いない。が、心を込めて毛筆を揮《ふる》い続けたサトウ、その面影《おもかげ》を私はなにか奥ゆかしいものとして想起するのである。
そのうちのあるものの紙背に、サトウが日本語の会話文例を書き並べたノートが書かれてある。それも見事な毛筆で、例えば「全体、老人《としより》だの、ヘボ儒者なんざぁ、七面倒な理屈を並べ立てて、世間のコゴトを謂《い》ひたがるもんですね」などとある。彼の生き生きとした口調が躍如としているではないか。
要するにサトウという人は、日本語の通訳として来日したのだが、ただ言語のみに留《とど》まらず、ひろく日本文化一般についての透徹した知識を目指したのである。
そもそもサトウがその厖大《ぼうだい》な古書コレクションを作り上げた動機も、たぶん日本の歴史や文学、思想、哲学等々の各方面にわたって、十全に勉強したいと欲したからに相違ない。それゆえ、これらの本には、彼の自筆の書き入れが少なくなく、また、その蒐集の態度は広く遺漏《いろう》なく集めるという見識に貫かれて、世の好事家《こうずか》的コレクションとは明らかな一線を画している。
それにまた、サトウは(外国人としてはたぶん世界で初めて)謡曲を習った人でもある。その先生は、さきの新潟|奉行《ぶぎよう》で幕臣の白石島岡という老人であった。こういうこともまた、当時の人種差別的一般状況を勘案すれば、それがいかに希有《けう》のことで、サトウがいかに非凡の人であったか、思い半ばに過ぎるというものである。
そして、なかんずく、私が厚い尊敬の念を覚えるのは、サトウの、蔵書に対する無私の態度とでもいうべきものである。彼は、盟友のアストンが『日本文学史』を著述するに当って、ほとんど一万冊近い蔵書を惜しみなく貸与し、終生その返還を求めなかった。これがアストンの死後ケンブリッジに収められて、今日に至っているアストン文庫というものの実体である。その他、後輩の日本語研究者バジル・ホール・チェンバレンに対してもまた数千冊の古書を贈与して、その研究を大いに助けるところがあった。これはチェンバレンの弟子上田万年を経由して、現在日本大学の図書館にある。
しかしながら、サトウの蔵書は大部分大英図書館にある。それを現在私たちが調査中であるが、その質の善良、量の厖大、分野の広範、いずれも個人蔵書としては世界に冠たるの地位を失わない。
こうしたサトウの業績を想《おも》うとき、そこには必ずや、彼の日本に対する深い愛情と、日本文化についての偏《かたよ》らない理解があったことが、看取されるのだ。
歴史上の偉人の、|歴史にあらわれない人となり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のようなものを、残されたその蔵書が雄弁に物語る。それを読むことができるということは、たしかに書誌学者の至福であるかもしれない。