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テーブルの雲15

时间: 2019-07-30    进入日语论坛
核心提示:風景を見る目 イギリスには富士山がない。 このことの意味は、風景ということを考える上で、かなり重要な位置を占めると私は考
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 風景を見る目
 
 
 イギリスには富士山がない。
 このことの意味は、風景ということを考える上で、かなり重要な位置を占めると私は考える。
 ひとつの国民が、何をもって「美しい風景」と感じるかということは、じつのところかなりそれぞれの国に個有の文化的な問題だと言ってよい。まずは、私たち自身のことを反省してみるところから始めよう。
 中国の瀟湘《しようしよう》八景になぞらえた近江八景だとか、天橋立《あまのはしだて》・松島・厳島《いつくしま》の日本三景だとか、あるいは、もっと甚《はなは》だしく富士山の名勝だけを集めて富嶽《ふがく》百景だとか、日本では「美しい景色」というものに一定の型があるように思われる。それはどちらを見てもまことに徹底していて、いわば何らかのステレオタイプにあてはめて鑑賞するとでもいおうか、景色には「見るべき景色」と「見るに値しない景色」とがある、というようにはっきりと区別しているのである。
 まず海辺ならば、白砂青松、さしずめ三保の松原あたりがその代表でもあろうか、緩やかに湾入した海岸線、穏やかに寄せる波、白く輝く清潔な砂浜、そして適宜傾斜し湾曲した松林、とこれが「|正しい《ヽヽヽ》海辺の美景」である(その風呂《ふろ》屋の壁画的美景!)。こういう類型の中に虹《にじ》の松原だとか高砂《たかさご》の松だとか、それはもう数え切れないくらいの、海辺の景色が含まれる。一方また、「松島」型のリアス式海岸の景色ならば、切り立った崖《がけ》、入り組んだ海岸線に、これまた穏やかな波と日本晴れ、そして島々に緑なす松、とこういうふうに決まっていて、この種の海岸としては、くだんの松島のほかに伊豆の南部西部、また伊勢志摩などがあげられようか。
 そして、川ならば、滝、渓谷、と相場が決まっていて、中流以下は通常あまり鑑賞の対象にならないことになっている。
 さて、山ならば「富士」。薩摩《さつま》富士、蝦夷《えぞ》富士、有明《ありあけ》富士、ナニ富士、カニ富士、と日本中いたるところに富士がある。富士が無いところでは、人工的に富士を造ってまで、とにかくあの円錐形《えんすいけい》の山容を愛《め》で続けて、もう千年以上過ごしてきたのである(もちろん、富士信仰というものもそこに考えておかねばなるまいけれど)。
 こういう風景に対する一種の固定的発想法は、その背後に、たとえば「歌枕《うたまくら》」というような文学的定型発想が隠されていることに留意すべきである。それはすなわち、日本人が「この景色は美しい」と感じるとき、その裏には、そこに宿る魂のようなものを想定しておかねばなるまいということである。
「歌枕」というのは、なかなか分りにくい概念であるが、要するに、その土地土地に鎮《しず》まっている、ある種の魂、精霊というようなものが、その景物のなかに宿っていると考えるのである。そしてそれを歌に詠《よ》むことによって、その土地の魂を言葉で鎮魂することが出来ると考えられている「特別の土地」のことである。この場合「枕」はもとより「魂の宿るところ」の意味にほかならない(だから、子供の頃よく叱《しか》られたように、枕を踏んづけたりしてはいけないのである)。
 こういう発想法が、進んで、「ものの見方、味わい方」を固定させる。
 たとえば、春の景色ならば「桜の花」……すなわち吉野山の桜、それも桜ならば「散りぎわ」、花曇りに一陣の風、と果てしなく厳格に規定し、動かなくなっていくのである。すると、吉野山は、夏の深い緑に覆《おお》われた頃などは誰一人顧みない、ということになる。
 紅葉ならば立田川、そこへ時雨《しぐれ》がパラパラと降りかかって、とか、三保の松原ならば爛漫《らんまん》たる春の午後、天神の梅には鶯《うぐいす》、嵯峨《さが》の竹林には雀《すずめ》、とさながら「画題」のごとく景色は固定され、春の立田川だの、吹雪の三保の松原だの、カラス飛ぶ竹林、なんてのは通常は鑑賞に値しないと看做《みな》されてきた。まして、普通の田畑の景色なんかは、とうてい鑑賞の対象とはなり得なかった(そういうものが絵画的鑑賞の対象になるのは、下って近代の到来を待たねばならなかった)。
 そういうことどもの、象徴的存在が、初めに言った「富士山」である。「富士山」の意味というのはそういうことである。試みに日本人の子供に、「お山の絵を描いてごらん」と言ってみると、まずたいてい富士山のような円錐形の山を描くであろう。山はそういう格好をしていなければ美しくない、という感じなのである。もっとも、中国の山水が移入されてからは、たとえば妙義山のような巍峨《ぎが》たる山容の山もそれなりに愛好されるようにはなったけれど、所詮《しよせん》その感じは借り物だし、結局富士にはとうてい敵し得ないに違いない。まして、アルプスのような切り立った岩山の景色は、畏《おそ》れ敬いこそすれ、それを「美しい」とはなかなか感じることが出来なかったのである。
 こういう思想は、おしなべての風景を「美しいから見るべき場所」と「どうでもよい見るに値しない場所」とに差別化する。
 見よ、いかに多くの日本人が「名勝」を見るためにのみ旅行をするか! 目的は、さながら「絵葉書のような名勝」を見ることである。だから、それまでの道中は「どうでもよいクズ」と看做《みな》される。したがって、彼らは目的地の絵葉書的名勝に着くまでは景色なんか見ないで、ひたすら酒を飲んでよっぱらったり、カラオケを歌ったりして、別の楽しみにうつつを抜かしているであろう。窓の外には風景は存在しないかのようである。それゆえ、これらの「どうでもよい景色」は破壊し、抹殺《まつさつ》しても大事ないと考える。かくて、日本は、大半の殺風景な景色と、ごく一部の名勝地とに画然と分れてしまった。
 ところで、こういう風景の鑑賞態度は、すくなくともイギリスにはまったく通用しない。
 極端にいうと、イギリスには上に述べた意味での名勝地というようなものは存在しない。ローモンド湖のほとりで、悲しい恋をしたね、という歌を歌ったからとて、それはローモンド湖が特別の名勝であることを意味しない。それは他の何湖でもじつは構わないのである。それに対して「ちはやぶる神代もきかず立田川|唐《から》くれなゐに水くくるとは」と在原業平《ありわらのなりひら》が歌うとき、その立田川は多摩川ではあり得ない、とそういう違いがあるのである。
 では、イギリスは美しくない国なのだろうか。
 そんなことはない。むしろそれは正反対で、イギリスは世界でもっとも美しい風景を持つ国の一つである。
 そのイギリスの風景の美しさとはなんだろうか。
 まず、遥々《はるばる》とひろがる大地である。イギリスの大地は地図で見るとずいぶん狭小のようだけれど、それは実際のイギリスを知らない人の感覚である。イギリスには山がない。いや、もっと正確にいうと、山はあるけれど、ごく低い山ばかりで、それもスコットランドやウエールズの一部に偏在しているに過ぎぬ。国土の大半は平地であるが、しかしその平地は、関東平野のように真っ平らなのではない。日本の平野は沖積《ちゆうせき》平野で、いわば自然の埋め立て地である。しかし、イギリスの平野は寛闊《かんかつ》に波打つ年老いた丘の連続である。そこは水利に乏しく、地味は痩《や》せ、日本的な意味での農耕に適さない。そういうところに、イギリスの民は、草の種を蒔《ま》き、石で塀《へい》を築き、運河を通し、木を植え、何百年もかかって整備し、美しく風景を作り上げてきたのである。
 それからまた、ムーア(moor)と呼ばれる荒れ地である。代表的なのは西のダート・ムーア、北のノースヨーク・ムーア。ムーアにはヘザーとかゴースなど、荒れ地に特有の背の低い草木が生え、それが、累々《るいるい》たる石の原を覆って冷涼な風に揺れているのである。そこには野生の馬などが住むばかりで、人間は殆《ほとん》ど居ない。
 さらには、荒々しい海岸線である。松の木も白砂もない。石灰岩の白い崖《がけ》が目路《めじ》遥かに続き、禿《は》げ山《やま》のように背の低い草に覆われた岬《みさき》には、いつも強い風が吹いている。その景色は荒涼として人を峻拒《しゆんきよ》するかのようだ。
 さてまた、ピクチャレスクな村々のたたずまいである。ロンドンを一歩出れば、そこは既に緑なす田園で、曲折する道を行くと、あちこちで美しく古びた村の家々に遭遇するであろう。白い壁の萱《かや》ぶき屋根、石積みの農家、煉瓦造《れんがづく》りのマナーハウス、十五、六世紀の建築などは一向に珍しくもない。
 それらの、移りゆく景色の中、車を走らせて行くのは良い気持ちである。窓の外は、どこもここも、心の浮き立つような美景ばかりで、一瞬もカラオケなんかにうつつを抜かしてはいられない。
 けれども、ではその美しい景色は何という場所ですか、と聞かれたら大抵のイギリス人は困却するだろう。なぜといって、そこは富士山や三保の松原のような意味での名勝地ではないからである。まったく無名の普通の土地、そこにこそイギリスの風景の魂は宿っている。イギリス人が「イギリスは美しい」と言うとき、それはそこらの村の家々の景色や、なんでもない牧草地の風景を対象としていることが多い。
 イギリスの風や太陽や雨や、それらの風景画が見つめているものは、じつは「何でもない風景」であるにほかならない。その|何でもない風景を見る目《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が、またその風景を美しく作ってきたのである。このあたりの消息は、かのコンスタブルの風景画をあれやこれや想像することによって、容易に理解されるであろう。
 あぁ、たしかにイギリスには富士山はない。しかし、別の言葉でいえば、イギリスは全土が富士山なのだとも言えるのである。
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