陸軍参謀本部が明治十七年に測量して同十九年に出版した五千分の一の九枚組東京地図がある。近年復刻されたのを手に入れて、これを眺《なが》めているとまことに飽きない。
この五千分の一という縮尺は極めて詳細なもので、さながら飛行機に乗っていにしえの東京上空を行くが如《ごと》くである。参謀本部はよほど集中的に人手を投入してこの地図を作ったらしく、維新からまだいくらも経《た》っていないこの時期に、ここまで徹底的に正確を極めた地図を作ったのは驚くべきことである。なにしろ、一つ一つの建物の形まではっきりと描かれているのだ。
まだ飛行機というものの無い時代で、逐一地上を歩いて測量して回ったことを思うとそれは尋常な努力ではなかったことが推量される。
江戸時代には参勤交代の制度のおかげで諸侯の江戸屋敷が至るところにあった。それらは維新で多く接収されたり取り壊されたりしたが、それでも明治のはじめにはまだ少なからず残っていた。そうして、それらの屋敷には、ふつう広大な日本庭園が付属しており、池があり、木々が茂っていた。で、これらの庭々に植木を供給し手入れするために、江戸近郊には夥《おびただ》しい園芸(植木)農家が存在し、それらはそのまま美しい林地をなしていただろう。幕末から明治にかけてやってきた多くの外国人が、等しく東京を美しい都市として賛美したのは蓋《けだ》し過褒《かほう》ではなかった。江戸から明治初期の東京は世界でも例がないほど緑に満ちた美しい田園都市だったのである。
概して言えば、明治この方の百年あまりは、その清々《すがすが》しい田園都市を食いつぶして、殺風景な町に作り変えてきた歴史であると言ってもよい。たとえば、どれほど多くの池が失われたか、それをこの地図で検証すると思い半ばに過ぎるものがある。
今、こころみにその第七号図『東京北西部』によって見てみよう。これは市谷《いちがや》・牛込・早稲田辺をカヴァーする地図であるが、この中で一番大きな池は意外にも戸山が原にある。すなわち、今の早稲田大学文学部と学習院女子部の間の公園地は、この時代には緑なす丘に抱かれた巨大な池だったのである。おそらく、鴨《かも》や雁《がん》や白鷺《しらさぎ》などが打ち群れていたことであろう。
そこから今の早稲田通りを神楽坂の方へ上って、矢来町牛込警察のあたりまで来ると、そこにもまた広々とした緑地に囲まれた大小の池があったことが分る。あるいは、今のフジテレビのある所のすぐ南には細長い窪地《くぼち》があって、そこにも二つの池があったのであるが、それを現代の実景から想像することは難しい。この池の周囲は沼沢地《しようたくち》のようになっていて、それを囲む斜面は林だったと見えるから、これなども今残っていたらたいそう眺めの良い緑地公園になっていたであろう。
嘆いても昔は帰らない。しかし、いささかの閑暇を得て、古い地図でも子細に眺めて見たら、この百年の間に私たちが失ったものがいかに大きかったかということが分ろうというものである。