父親の話をしようと思う。
私の父は、林雄二郎といって、今は第一線を退いて日本財団の特別顧問をしているけれど、もともと所得倍増計画などに携わった経済企画庁の官庁エコノミストだった。
その父が、もうずいぶん昔、戦後の経済復興計画に関与していたころ、それはたぶんもう四十年も以前になるだろうか、何か国際会議の随員として海外へ出かけて行ったことがある。
その時父は、記念にオメガの腕時計を買ってきた。むろん自分の腕にはめるために買ってきたのである。まだ超薄型なんていうテクノロジーの開発される以前で、ずいぶんと厚ぼったい、そうして重厚な腕時計だった。しかし、その時計は当時として最新の自動巻き機能を備えており、ゆすると中でカタンカタンと巻き上げオモリが回転するのが感じられた。
まだ多くの時計は竜頭《りゆうず》をジコジコと巻き上げる方式で、クォーツなどというハイテク仕掛はまったく登場していなかった時分のこととて、このオメガの自動巻きは先進技術として目を瞠《みは》らせるに足るものだったに違いない。当時家の柱にかかっていた「柱時計」はいわゆる振子式のゼンマイ仕掛で、毎日一定の時間に、踏台にのって、チョウチョのような形の大きな金具でギュウギュウとネジをまいていた、そんな時代だったのである。国産品の品質はまだ本場欧米のそれには遠く及ばず、いってみればパーカーの万年筆とかオメガの時計とかは、その頃舶来上等の代名詞的存在だった。
父はその最新型を自慢して、「これはこうしてオモリが回転してその力でネジを巻くから、何もしなくても動き続けるのだよ」と、わざとらしく時計をゆすって見せたりした。そういうとき私は、「そうするとしかし、夜寝ている時なんかは止まっちまわないのかなぁ」と余計な心配をしたものだった。「ナーニ、昼間の動いているうちに充分ゼンマイを巻いておくから寝てる間くらいは大丈夫なのだよ」と父は笑って教えたけれど、そうすると「じゃ、巻き過ぎてゼンマイを巻き切ってしまいはせぬかなぁ」とまたもや心配になった。それが巻き過ぎもせず、止まりもせぬところにこのオメガの新式の大した発明があるもののように思われた。
それ以来父は、いつでもこの時計をして「ちっとも狂わない」と甚《はなは》だ感にたえたように言い言いした。そうして、何年かに一度ずつ代理店に持っていって、オーバーホールをしては大事に大事に使った。
やがて私が大学に入った時だったか、父は記念にやっぱりオメガを買ってくれた。それは、父のそれよりも遥かに進歩した薄型で勿論《もちろん》自動巻きのスマートな機械だったが、使い始めて間もなく、洗面所で木の床に落したら、あっけなくガラスが外れて壊れてしまった。その故障は代理店で直してくれたけれど、修理にずいぶんと時間がかかり、しかも直ったのちもどんどん遅れていって、一向に正確に動いてはくれなかった。それで、またもや修理に持っていくと、しばらくして「これでもう大丈夫です。正確に動くことはテスト済みですから」といって返されてきた。ところが、私の体から、なにか時計に悪い「気」でも発しているのか、その時計は私の腕にはめるとすぐとまたどんどん遅れ始めるのだった。
そのうち、世の中は安いクォーツや液晶表示のデジタル時計の時代になった。私は暫く抵抗していたけれど、私のオメガは父のそれのようには忠実に動いてくれなかったせいもあって、とうとう黒い合成樹脂に覆われたデジタル時計に乗り換えた。それいらい、私はこの軽くて正確無比なごくごく安物のデジタル時計を愛好しているのである。いま使っているのはその何台目かであるが、カシオのワールドタイムという、文字盤の中に世界地図が描かれてあって世界中の時間が瞬時に見られるという機種で、イギリスとしょっちゅうやり取りしている私のような人間には最も便利である。
ところで、驚いたことに、父はその古い古いオメガをいまだに愛用していて、その文字盤はすっかり黄ばみ、あちこち傷だらけになってはいるけれど、機能そのものはまったく健在であるらしい。
オメガの時代の人間である父に対して、オメガはなんだか悠久《ゆうきゆう》という感じの時間を刻み続けて四十年が経《た》った。一方デジタルの時代の子である私には、カシオの賢い電池時計がせわしなく時を刻んで、これは、五年に一度くらい、電池が切れるとともに買い換える。
しかもそういう何十年も前の古い時計が、いまだに修理可能なように部品が供給されているということ自体驚くべきことで、この時計の存在自体たしかに「オメガ的時間」といってよいのであろう。