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テーブルの雲21

时间: 2019-07-30    进入日语论坛
核心提示:洋行先生緑蔭清談「先生もなんでしょう、最近洋行から御帰朝になったについちゃ、だいぶんと珍談なぞがござんしょうねぇ。まぁも
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 洋行先生緑蔭清談
 
 
「先生もなんでしょう、最近洋行から御帰朝になったについちゃ、だいぶんと珍談なぞがござんしょうねぇ。まぁもともとお嫌《きら》いな道でもなし、ちょいとこのソレガシにもお教えが願いたいもんですな」
「いやいや、あたくしてぇものが、ぜんたい堅いうえにも堅い人間だからね。全日本石部金吉組合の組合長てぇくらいのもんですからね、なにしろ。とは申せ、なにごとも学問と心得てですな、このね、あたくしも、エー、ずいぶんと彼《か》の地のいわゆるなんですな、ほら例のちょっといけない種類の物をね、ま人並には、いや人並より少ーし詳しく観察研究を加えては参りましたがね、いや御披露《ごひろう》に及ぶとなると、こまりましたなぁ」
「そもそも、どこが一番の違いです、わが国と欧州のワジルシ(注、ポルノ本の意の大和言葉)世界は?」
「さよう、まずごくおおまかに一口でこれを言ってしまえばです、基本が違いますな、その人間の肉体というものについてのね、そのォ……認識の根幹がね」
「ほほう、それはまたどういう塩梅《あんばい》式です」
「キミ、ひとつ真夏のミュンヘンへ行ってごろうじろ、ってもんです、ミュンヘンのね、イングリッシャーガルテンてえところにね、毎日裸体主義者が出ます、それも三人五人てぇな生易しい数じゃありませんよ、二百人三百人てぇ具合式だ、これが……フフフ、そうすると、なんだろ、キミのように頭脳がワイセツに出来ている仁は、なにかヨコシマなことを想像するだろ。いけませんよ、それじゃ日本の警察と一緒ってもんです。裸体自体がワイセツだってぇ考えかた自体がどだいいけませんよ。だいいち西洋じゃ人間の肉体てぇものは神がオノレの肉体に似せてお造り遊ばしたってぇくらいのもんです。裸体それ何の恥ずるところあらんや、だ!」
「なぁるほどねぇ。じゃそのガルテンってところでは白日青天みな裸体ってわけですか」
「あぁ、そうとも。裸体ったってジイサンバアサンが背中の流しっこしてる湯治場みたいなものを思い浮かべちゃいけませんよ。言ってみれば老若男女こぞって、って図です。いや、そりゃきれいなもんだ。でね、実はこの主義にはずっと昔にディーフェンバッハという畸人《きじん》の絵描《えか》きが居てね、それがこの人間は裸体自然をもって貴しとすってんでね、実行して歩いた。そうですな、本朝で言や、例の『全身顔にせよ』の及川裸貫《おいかわらかん》さんの元締の格でね。あの国は全体寒いんだから、偉いもんですよ」
「先生、ドイツのラカンさんの話じゃなくて、そのワジルシの話が願いたいんですがね」
「せわしい男だねキミも。だんだん順序でこう行くからさ、あせっちゃいけませんよ……そこでさ、いいかい。だからね、あちらではね、裸になって人前に出るとか、裸を衆人の鑑賞に供えるなんてことは、べつに何の不都合もないってことです。こりゃギリシャローマ以来の伝統ですよ」
「するってぇと、裸だけじゃ、こりゃワジルシにはならないってもんですね」
「あぁ、御明察。そのとおりですよ。だからね、本来は裸に対するワイセツ感はあまりない。問題はね、ほらアダムとイヴなんてんで、禁断の林檎《りんご》を食べたのがいけない、つまりそのエロス的行為に及ぶってのがけしからぬ罪だ、とこういうわけなんだね、行為《ヽヽ》が。それをキリスト教的倫理観が、見ちゃいかん、しちゃいかんと抑圧を加える、そうすると、そこを見たいとなるのが人情でね。西洋ではな、エロスというものは罪と背中合わせなんですな。分るかね、キミの脆弱《ぜいじやく》なる頭脳ではちと荷が重いかな。そこでだね、ヨーロッパ大陸のものは、たとえば、ホモ・レズの同性愛とかね、子供や獣を相手にするなんてぇ、まあどうもけしからぬ趣味とかね、又はサド・マゾ、その一部門たるボンデージあるいは、スパンキングなんてのが格好の素材となると、かくの如《ごと》しさ」
「なんです、そのスパンキングてのは?」
「あぁ、これはそのたとえばね、修道院とか女学校の寮とかそういう規律厳しきところでだね、破戒密通とか、そういう|いけない《ヽヽヽヽ》ことをした修道女だとか女生徒なんてののお尻《しり》を出してね、ペンペンするってぇか、つまりお仕置もののことさね。つまりなにがワイセツで男どもの劣情を刺激するかということは、一見単純で生理的なことのように見えますがね、どうしてどうしてさにあらず、じつはこれがすぐれて文化的というか、社会の文化的構造と密接不可分の関係にあるということである」
「どうも先生の話はむつかしくていけない。そう興奮しないで、もっとこう易しく願いますよ」
「いや、何をいうか、キミは。あたくしはちっとも興奮なぞはしていませんよ。ただ道理の至極というものを述べただけでね。エヘン……ともあれ、あちらのものはね、裸体よりも行為それ自体だ、しかもじつにまた即物的でね、あたくしがドイツで見学した映画なんてものも、まことにどうも恐れ入ったしろものでね。男一人で三人の若後家を喜ばしむるてぇ趣向です。これには、ハッハ、笑いました。それはね、男が、ムフフフ、尻の所に後ろ向きに人工ペニス、つまりは西洋張形ですな、こいつを装着して、牛の角じゃあるまいし前後両方向に向いて二本のペニスがあるかたちになる。しかして前より一人、後ろより一人と、二人の女が取り掛かってな、前へ突かんとするときは後ろは抜かんとし、前を抜き差しせんとするにおいては後ろを突き倒すという次第で、ハッハッハ、よく考えたものではあるがね、で、もう一人はってぇとね、機械仕掛の電動道具で、こうブイーンとイカされちまうってわけさ。こいつだけはどうも割が悪いな、どうでもいいけれど……いやいやつい話が脱線してしまった、……ともかく肉体はこれを肯定する。だからワジルシかそうでないかの境目ってのはね、性行為それ自体を行ってるかどうかってことでな、ま、動作決定説とでも言うかな。だからね、かのガルテンの方でも素っ裸の若い男女なぞが熱烈に抱き合って接吻《せつぷん》してるんだがね、それだけでは公然にワイセツ行為をなしたことにはならぬらしい」
「すると、先生、日本はどういうことに……?」
「さよう、日本では……昔は裸体ということで羞恥心《しゆうちしん》を感じるというのはな、まぁ、とりわけ女の下半身に限られていた。胸を隠すなんてのはありゃごくごく新しいことです、いや世界的にみれば、あの乳房を乳当てによって隠蔽《いんぺい》するというのは、これは西欧世界のごく風変りな習俗に属する。あれは奇習ですよ、奇習! あたくしが若かった頃にはね、温泉場なんぞに行くと、こう宿の前の道に縁台を出してね、そこにずらっとおカミさんやら娘さんやらが並んで夕涼みなんかしてたもんです。そういう時は腰巻一丁でね、胸は平気で丸だしですからね、電車の中でおっぱいだして赤ん坊に乳をやるなんてのも、こりゃまた平気の平左だった。それ故《ゆえ》、だね、上半身を出して化粧する女、なんて絵はね、こりゃまったく春画や|あぶな絵《ヽヽヽヽ》の範疇《はんちゆう》には入らない」
「そうですか、じゃ昨今|流行《はや》りの巨乳なんてのは?」
「あぁ、あぁ、もっとも下らない。昔の日本の男はね、あんなものを見ても、ははあ、牛だね、どうもありゃぁ、とぐらいしか思やしないよ、じっさい」
「では伺いますがね、日本人は何に感じたんです?」
「ずばり、シモハンシンだな」
「ははあ、シモですか、やっぱり」
「シモです。例の久米《くめ》の仙人《せんにん》だってね、女の乳なんぞ見たって、墜落しやしないよ。あれはふくらはぎを見たんで、つい邪念が起こって通力が失せるんだからね、つまりは劣情を刺激された、とこういうわけさ。……まだある。歌舞伎《かぶき》芝居だってね、もとはと言えば出雲《いずも》の阿国《おくに》という美形の女が念仏踊りをやる、踊るってことは跳ねるってことだよ、そうすりゃ、このね、着物の裾《すそ》んところから、ふくらはぎだの、どうかすると太股《ふともも》なんてのがチラリチラリと見えるだろ、これですよ、エロチシズムってのはね、日本人の男にとってのさ。こっちは動作より前に肉体そのものに既にワイセツ性が宿ると考える、それが伝統になってるんだから仕方がない。そもそも大昔の神話なんぞを読むとだね、人間の体にはもともと汚《けが》れがある、とこういう塩梅式だ、とりわけ女の体は血の汚れというものがある、出産とか月の障《さわ》りとか、みなこれ血の汚れとして忌避隠蔽するわけだ。そこに、羞恥心や性的刺激の中心が求められるってわけでね」
「すると、こうワジルシのほうも、シモですか」
「アァ、シモだね。少なくとも浮世絵のワ物なんかを見てもね、女の上半身には殆ど全く何の注意も払っていない。ひたすらシモ半身です。ご覧、あんまりひどいのはお前さんのように血気の者には毒だから、まあ上品なところを見せて上げるとね、こりゃ『文の便り』って、江戸時代のラブレターの書きようを教えた、まあバカな本だがね、ここに『男女交合秘伝』とあるだろ」
「こういうクニャクニャした字で書いてあっちゃソレガシには読めませんが」
「じゃ読んでやろう……フムフム、フッフッフ、ムヒヒハッハッハ、なるほどなるほど」
「先生独りで楽しんでちゃずるいですよ」
「あぁ、そうか分った分った、いいかここにこう書いてある、『男女ひそかに対面し、話しなどするに、女の顔赤くなるは心中に淫慾《いんよく》の念きざすしるし也《なり》。其時男子の玉茎を女人の玉門にあてがふべし』とさ、どうだ単刀直入なもんだろう。いい気なもんだね、女の顔が赤くなるだけで、その先を全部パスしていきなり玉門にあてがうところまで行っちまうんだからなぁ……唯《ゆい》シモ主義ですな、日本は。で、こっちにはもともとキリスト教的な禁欲主義なんぞありゃしなかった。禁欲抑圧のあるところに、必ずその反世界としての変態性欲が出現する。サドやマゾッホなんぞが彼の地に出現したってのは決して偶然でない。その意味では、日本では性そのものがタブーではなかったのでな、いきおい変態的なことよりも、性行為そのものを陰陽道的に解析したり錬磨《れんま》したり、とある意味では健全、小市民的です。それと、覗《のぞ》き趣味。日本のワジルシにはね、必ずこう、物陰から|覗く人《ヽヽヽ》が配置される、それによって見る人は覗き見的にその視点に同化する寸法だな、江戸時代の小説には豆男物と言ってね、一寸法師とか蠅男《はえおとこ》みたいな主人公があちこちの閨《ねや》を覗いて回るなんてしょうもない趣向があるがね、その覗き趣味の一変形です。そうして、その隠されたシモ半身を覗くというところに大興味があるんだから、そういう性的風土の中ではサド・マゾ的な風潮は助長されない。それが顕著に出て来るのは明治になって儒教的道徳による禁欲純潔主義が抑圧を加えるようになってからでしょうな」
「すると先生、あのAVのモザイクなんてのは?」
「おうそれさ、それこそ人間の肉体それ自体、つまりとりわけ女の陰毛とか性器とかだな、そういう|モノ《ヽヽ》に対する伝統的抑圧、隠蔽意識ってものがこういう形に結実するのだな、つまり、それだからその見えない部分を妄想《もうそう》して劣情を刺激するというわけでな、こりゃぁ屈折してるね、ナニ、あたくしが研究したところでは、あのモザイクの無いやつを見ると何もしてなかったりしてな、ひとつも面白いことはない、いや先だってもね……」
 洋行先生の清談ますます佳境に入るや緑蔭|涼風裏《りようふうり》にキョキョキョとホトトギスの鳴きて渡りぬ。さては虚のまた虚か、夢のまた夢か、はた覚えずなりぬ。
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