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テーブルの雲23

时间: 2019-07-30    进入日语论坛
核心提示:『青猫』の頃 手元に二冊の汚れた新潮文庫がある。昭和四十年第十三刷の『月に吠《ほ》える』と、昭和三十八年第六刷の『青猫』
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 『青猫』の頃
 
 
 手元に二冊の汚れた新潮文庫がある。昭和四十年第十三刷の『月に吠《ほ》える』と、昭和三十八年第六刷の『青猫』である。どちらも実は、私が高校生の頃早稲田の古本屋で買ったものであるが、とりわけ『青猫』の方は愛惜して常に懐中に携行していたので、角は丸くなり、あまつさえ背のあたりに大きな染みが付いてしまっている。たぶん鞄《かばん》の中で弁当の汁か何かが付いたものであろう。
 いま、それらの古びたページを開くと、過ぎ去った帰らぬ日々が胸中に去来して、なんだかいたましい思いにとらわれる。そのところどころに丸印を付けてあるのは、当時とりわけ愛誦《あいしよう》した作品であろう。
 たとえば「群集の中を求めて歩く」がそうだ。
 
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私はいつも都会をもとめる
都会のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる
群集はおほきな感情をもつた浪《なみ》のやうなものだ
どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲の|ぐるうぷ《ヽヽヽヽ》だ
ああ ものがなしき春のたそがれどき
都会の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ
おほきな群集の中にもまれてゆくのはどんなに楽しいことか……
[#ここで字下げ終わり]
 
 当時私が通っていた都立戸山高校は、新宿と早稲田の中間くらいの所にあって、屋上から望めば、黒々とした新宿のビル群が見えた。さしあたり、私にとっての都会というのは、その新宿の雑然たる街路であったろう。折節の、春の愁《うれ》いとでもいうような少年らしい憂鬱《ゆううつ》の中で、私はようやく大人になろうとしていた。そうして家庭の無風状態から、朔太郎のいわゆる「都会」の中へ出て行こうとしていたのである。
 無論しかし、私は無頼《ぶらい》の徒となったわけでもなく、当時流行のフーテンの群に投じたわけでもない。
 ラグビー少年でもあった私は、髪は短いスポーツ刈りにし、日に焼けて浅黒い健康な顔色をしていた。たぶん人から見れば、神経症の青白い朔太郎とはまるで無関係な種類の人間に見えたに違いない。しかし、私はひそかに詩を読み、その言葉の呪術《じゆじゆつ》に陶然として、朔太郎や三好達治の模倣のような言葉をこっそりとノートに書き付ける毎日を送っていたのだ。
 当時、早稲田大学近くの官舎に住んでいた私は、高校からの帰り道、いつもあちこちの古本屋を冷やかして歩いた。たぶん『青猫』もそんなふうにして買ったものであったろう。その頃私はまた、忙しい受験勉強の合間に、時折新宿の裏町を彷徨《ほうこう》することがあったが、それはまったくこの『青猫』を気取っていたのである。
 級友の中には、早くも紅灯《こうとう》の巷《ちまた》に出入《しゆつにゆう》する早熟な男もないではなかったが、私は甚《はなは》だ幼稚で、本当の放蕩《ほうとう》にはすこしも興味がなく、ただ、憂鬱そうな顔をして、新宿の街路を南から北へ東から西へ、さまよい歩いていたに過ぎない。
 さて、そういうとき、心の中では何を思ったか。
 
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鬱蒼《うつそう》としげつた森林の樹木のかげで
ひとつの思想を歩ませながら
仏は蒼明の自然を感じた
どんな瞑想《めいそう》をもいきいきとさせ
どんな涅槃《ねはん》にも溶け入るやうな
そんな美しい月夜をみた。
「思想は一つの意匠であるか」
仏は月影を踏み行きながら
かれのやさしい心にたづねた。
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 この「思想は一つの意匠であるか」という詩編にもまた、丸が付いている。こういうぞっとするような言葉の美しい配列を脳細胞に刻みつけながら、私は朔太郎という詩人を一つの奇跡だと思った。そして、言葉というものが、どれほどの奥行きと、どれほどの艶麗《えんれい》さを持ち得るものか、あたかも金縛りにあったように、思い知ったのである(今でも私は、朔太郎の、これらの言語魔術の呪縛から逃れられない)。
 思うに、私にとっての朔太郎は、最初に出会った「文学」だったのである。その後、漱石を知り、鴎外を読み、古典の世界に進んだが、散文では鴎外の『澀江抽齋《しぶえちゆうさい》』に勝るものを見ず、詩では朔太郎、とりわけ『青猫』以上の作を知らぬ。
 評論家的な意味で、私が『青猫』を「理解」したかどうかとなると、これは怪しいものである。しかし、表現としての言語の美を味わい尽くしたという意味では、じつは自ら些《いささ》か恃《たの》むところが無いでもないのである。
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