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テーブルの雲26

时间: 2019-07-30    进入日语论坛
核心提示:大学院時代のことども 慶應義塾大学院の修士課程に進んだのは、私が二十三歳の年だったから、それから早くも四半世紀近い年月が
(单词翻译:双击或拖选)
 大学院時代のことども
 
 
 慶應義塾大学院の修士課程に進んだのは、私が二十三歳の年だったから、それから早くも四半世紀近い年月が流れ去ったことになる。なんだか遠い昔という気もするいっぽうで、昨日のことのように鮮明に思い出されるところもある。それだけ、私の一生にとっては大切な時代だったということかもしれない。
 当時は、大学院は修士課程二年と博士課程三年はまったく別の存在で、修士課程に入るには、大学四年の時に入試を受け、そうして博士課程に入るには、修士論文を書きながら別に博士課程の入試をもう一度受けなければならないことになっていた。そして、それはだんだんと専門的に難しくなっていく仕組みである。
 学部のころの私は、好き嫌いの激しい学生で、近世文学のこと以外はいっこうに勉強した覚えがない。ところが、大学院の入試問題というのをみてみると、古代から近代まで満遍なく出題されるようであった。さて、これは困ったと思って、それから私はにわかに折口信夫《おりくちしのぶ》などを読んだ。修士課程の入試問題は、比較的小さな出題がいくつも出る形式で、むろんすべて論述式だった。もう何が出題されたかすっかり忘れてしまったけれど、連句の渡りを解釈・鑑賞する問題やら、古事記のなにかやら、あれこれと答えた記憶がおぼろげにある。博士課程の問題は、これに比べるとなにか茫洋《ぼうよう》としたつかみ所のない出題であるのが普通で、それだけ、付け焼き刃では歯が立たないのであった。私の受けた時は、なんでも「文学におけるリアリズムについて述べよ」というようなことだったような気がする。がさて、この問にどう答えたか、もう忘れてしまった。
 大学院に入ってみると、そこは想像していた以上に恐ろしく勉強をさせられるところだった。なにしろ、たしか修士課程の定員は一学年六人かそこらで、そのなかには古事記、万葉から漱石、太宰《だざい》まであらゆる専攻の学生が含まれる。ということは各時代一人ずつというほどのことであった。早稲田などとはことかわり、修士課程というのは、ようするにまだ本当の専門課程ではない、というのが慶應の考え方であった。学部の時の勉強などはノーカウントである。大学院になって、はじめてほんとうの「方法」を学ぶのだという考えだったのであろう。修士課程の二年間に、必修で八科目を履修することになっており、その外に、個人指導のような形で修士論文があったのだが、この八科目を二年に分けて四科目ずつ取るということは、原則として許されなかった。私たち一年生六人は、この八科目をすべて一年生の時に取ってしまわなければならないという慣例だったのである。ところが、この八科目には、古代から中古・中世・近世・近代と総《すべ》ての時代が網羅《もうら》されている。それを各自の専攻が何であれ、すべて取らなくてはならないのである。私たちは、だから、古代専攻の学生も近代専攻の学生も、みな机を並べて、おなじことを勉強したのである。
 それは一見不合理不能率のように見える、しかし、その後、高校の先生になり、大学の教師になり、また今のように作家業を兼ねるようになると、あのころのごった煮のような勉強が、どれほど有り難かったか分らない。若い頃に、はやばやと専攻に分かれて、ごく小さな世界に取り籠るといういまの学生たちを見ていると、それではもっとなにか「大きなこと」が見えないじゃないか、と気の毒な気がするのである。
 今から思えば、そのころ慶應の大学院にはまことに錚々《そうそう》たる教授陣が揃《そろ》っていた。その最長老は折口信夫の高弟佐藤|信彦《のぶひこ》先生で、この先生はほんとうに偉い先生だったが、いったいどのように偉かったかについては、本書の「信彦先生」の章に述べてあるので、ここには書かない。
 佐藤先生は『万葉集』と『源氏物語』の輪読演習を、私の指導教授森武之助先生は『キリシタン版天草本平家物語』の本文研究と江戸前期貞門・談林|俳諧《はいかい》の集『紅梅千句』『大坂独吟集』の輪読を、またタレント教授としても有名だった池田弥三郎先生は、芸能史の一環として能の『翁《おきな》』の詞章の解読を、孤高の世界的言語学者亀井孝先生は国語学の手ほどきを、漢文界の重鎮藤野岩友先生は『楚辞《そじ》』講読を、そうして須藤松雄先生は志賀|直哉《なおや》の評論的講義を、というふうにそれは一種壮観ともいうべき景色であった。
 これだけの数と質の授業に、たった六人の学生で立ち向かうのである。当然のことながら、その勉強は並大抵でなかった。なにしろ、それらはほとんどが演習式なので、ただぼおっと聞いていれば済むというものではない。だれかがレポーターとなって、研究発表の形で進行しなければならなかった。そうすると、毎週一回半くらいの割合で担当が回ってくる。担当になった者は、先生を前に一時間半みっちりと発表しなければならない。その上で、先生たちの厳格なる試問になんとかして答えなければならないのだ。たまさか同じ週に佐藤先生と森先生と池田先生の発表が重なったりすると、その一週間は(決して大げさでなく)ほとんど寝る暇がなかった。
 とりわけ、佐藤先生の『万葉』などは、たった一首の歌を解釈するのに、古今の既存注釈書は、総て調べてノートに書き抜き、問題点を抽出し、それについて、語や表現の『万葉』・『古事記』等における用例を網羅《もうら》して、それを根拠として自分の解釈はかくのごとしと述べなければならないのだった。「こうだと思います」などといい加減なことを言ってごまかそうとしても、たちまち「その根拠はどこにありますか」と突っ込まれて立ち往生してしまう。それはほんとうに恐ろしい授業だった。
 森先生の『天草版平家物語』は、通称「ハビアン抄」と呼ばれるこの口語訳『平家物語』ダイジェストの、底本として用いられたテキストは何本であったかということを探求するもので、この考究の為《ため》には、夥《おびただ》しい『平家』諸本のうち、主要な十本くらいについて、徹底的に正確な対校表を作って行かなくてはならない。その上で、ポルトガル式ローマ字で書かれた「ハビアン抄」の原本と精密に比較するという方法なので、これはどうやっても頗《すこぶ》る時間がかかった。しかし、それによって、私たちは、八幡《やわた》の藪《やぶ》知らず式に混乱を極めている『平家物語』の本文の系統について、概《おおむ》ねのところを窺《うかが》うことができたのは本当に幸いなることだったと言わねばなるまい。
 また森先生の『紅梅千句』『大坂独吟集』の輪読は、これまた大変な準備が必要で、苦労した授業の一つだった。なにしろ、当時は、これらの作品については注釈のようなものはほとんどなかった。そこで、まず、『俳諧類船集』『便船集《びんせんしゆう》』『毛吹草《けふきぐさ》』などの俳書を引いて語と語の「付け合い」を摘出する。これが、しかし、まだ索引などは全然できていなかったので、片端から順に読んでいくというようなやり方をしなければならなかった(私は手間を省くために索引を作ろうとしたことがあるが、それは完成しないうちに索引が刊行され、手許《てもと》にカードの山が残った)。さらには、句の中に現れる一つ一つの語や表現について、その用例を逐一《ちくいち》求め、社会背景を探り、それから、それが古典作品や能や浄瑠璃《じようるり》などの出典を持つらしい場合は、それも探り当てなければならなかった。ところが当時はまだ『謡曲二百五十番集索引』などもできておらず、これまた、片端から読んではカードをとるという迂遠《うえん》な方法で勉強したのである。
 そうやって、寝る間も惜しんで勉強したのが、私たちの大学院時代なのだが、そのころたとえば『俳諧類船集』のようなものを、片端から読んだということが、江戸時代の言語感覚を掴《つか》む上で、非常に役にたったし、また、能や浄瑠璃や室町物語や説経節や幸若舞や様々の漢詩文などの古典をせっせと読んでは記録を取ったことなども、あの頃でなければできなかったことだったなと今は懐かしく思い出すのである。
 現代は総てが便利になり、たいていの作品には完備した索引が出版されているから、今の学生たちは、さっさと索引を用いて能率的に用例検索など済ませることであろう。殆《ほとん》ど総ての歌集を網羅《もうら》したCD‐ROMなんてものさえできているから、それはそれで喜ぶべきことにはちがいない。しかし、その一方で、ああいう古典的で不能率な勉強法がもたらすメリットも忘れてはなるまい。
 その過程で、私はそれまで接したこともなかった、多くの古典作品に、若く柔軟な頭で縦横に接することができたのだし、それによって、たとえば西鶴でも近松でも、ある作品が、あるいはある作者が、その背後に抱えている厖大《ぼうだい》な文学の地平を、大きく把握することができたからである。西鶴を読むと能のなにがしが思い浮かばれ、能のなにがしから、平安文学が想起され、平安文学にはまた、唐代の漢詩文が髣髴《ほうふつ》し、というふうに、文学の世界が広々としたネットワークとして心に落ちついてくる。それはひとえに、この慶應方式の、修士の間は専門に限定しないスパルタ式訓練のおかげだったと思うのである。
 それから四半世紀が経って、お教えを頂いた先生方は多く故人となってしまわれた。よくは知らないのだが、もしかすると今や慶應もかつてのようではないかもしれない。
 しかしながら、今もういちどあの密度で読書をしたいと思っても、時間はないし、目はかつてのように鮮明ではないし、なにもかも思うに任せぬことのみである。そうなって初めて、あのころのことがしみじみと有り難く思い出されるのである。
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