「九州へ行ってきた。そしたらさ、なんだかこう醤油が甘いんだよね、実際」
「やっぱり、醤油なんてものも土地土地で多少好みが違うでしょうからね。関西は例の薄口ですし……」
「わたしゃ、どうもあの薄口ってのはあんまり好きじゃないね、塩辛いばっかりで醤油の旨《うま》みってものが薄いよ、あれは。煮物の色はきれいに仕上がるかもしれないけれど、関東の人間にはどうもね、一般的には使い難《がた》い」
「九州はどちらにいらしてたんですか」
「うんまぁ、ちょっと講演でね、福岡へ。それでついでに、すこーし足を延ばして志賀之島《しかのしま》とか、呼子《よぶこ》ってね、佐賀の方の漁港へね、わたしの好きなイカを食べに行ってきた」
「なにか特別のイカなんですか、そこは」
「いや、こないだ食べたのはヤリイカの立派なやつだった。だけどね、それが港の桟橋《さんばし》に面して料理屋があってね、店の真中にデカイ水槽《すいそう》がある。で、その中に上がったばかりのイカがたくさん泳がしてあってね、頼むよってぇと、アイヨってんで、その場で上げて刺身で半分、残りはイカ天にしてくれて、まぁ定食コースみたいになってる。なにしろ、活《い》きてるからね、ピカピカして、旨いんだ、これが。ところがさ、そこでもどこでも刺身の醤油がばかに甘い、まぁ東京にも刺身醤油ってすこしドロッと濃くって多少甘いのがあるじゃない。あれですよ、いってみれば。でもわたしが思うにはね、刺身も寿司もやっぱり東京式にあっさりとした普通の濃口《こいくち》醤油が飽きが来なくて旨いような気がするけどね……ところで今日は、良いイカは入っているかい」
「ええ、うちも今日はヤリイカが活きで入ってます。ひとつ出しましょう。刺身でいきますか、それとも握りましょうか」
「そうだなぁ、じゃ握って、それからその足の付け根っていうか、クチバシのところのコリコリした軟骨風のところあるじゃない、あそこを刺身にしてくれる? それからゲソはちょっとゆでて甘いタレつけてね、ハハハ、なにせ馬鹿《ばか》なイカ好きだからね、わたしってものがね」
「なんですか、イギリスなんかじゃ、醤油は手にはいりますか」
「あぁ、入る入る。今じゃケンブリッジみたいな田舎へ行ったってチャーンとキッコーマンの瓶詰《びんづめ》売ってる。中国人のスーパーでね。もっともどうやらマレーシア工場製らしいけれどね。ロンドンにはまったく日本の醤油がなんでもあるよ」
「イギリス人も醤油を使うんですか、そうすると」
「ウーン一概には言えないな。なにしろ階級ってものがあるからね、あの国には。中流以上だと、ちょっと東洋趣味があって、けっこう醤油なんかもシーズニング(味付け調味料)として使うけれど、労働者階級になると保守的であまり自分では使わない。だけどまぁ、中国料理が非常に一般的だからね、自然と醤油の味には慣れてるわけです」
「中国の醤油はまたちょっと違いましょ、日本のとは」
「ウン、おおきに違う。中国のは刺身醤油に近くて、甘くてドロリの口だからね、でね、面白いことに、中国人自体、イギリスでは日本の醤油の方が旨いなんて言ってる……」
「ははぁ、そうですか」
「大塚滋《おおつかしげる》さんていう人の『しょうゆ 世界への旅』という本を読むとね、十八世紀に作られたディドロの百科事典にはスイとかソワとかいう名前で醤油のことが出てるって書いてある。でね、それには肉料理にごく少量用いると肉の旨みを頗《すこぶ》る引き立てる、とあるそうだ。ショウユというのからなまってスイとかソワになるんだろう、つまり英語のソイソースってのもおんなじでね、大豆のことをソイビーンズというのは醤油を作る豆だからそう呼ぶんだそうだ」
「ヘエッ、フランス料理にもそんなに古くから使われたんですかね、わからないもんですね」
「イギリス料理にはグレービィスープっていって、馬鹿に色の濃い塩辛いスープがあるけれど、あれは多分醤油で味を付けるに違いない、と睨《にら》んでいるんだ、じつは。イギリス伝統のウースターソースなんてのも醤油の模倣ってのがほんとのところらしいよ」
「ハイ、イカゲソの付け根んところね」
「これこれ、フッフ、でさ、醤油はいろいろ特徴があるけれど、たとえばさ、インドの人はカレーばかり食べるから、体からカレーの匂いがする。アラブの人は羊の脂《あぶら》の匂いがする。韓国の人はニンニクの匂いね。だから日本人はたぶん外国人からすると、醤油の匂いがするんじゃないか、と思うわけ……でね、あるときイギリス人のガールフレンドに聞いてみたんだ。俺《おれ》たち日本人は醤油の匂いがするんじゃない? ってね」
「そしたらどうしました」
「いいや、全然なにも匂わないってさ」
「ハイ、イカの握りね」
「だからね、こういうことです。醤油ってのはさ、肉によし野菜によし、魚に勿論《もちろん》よし、で万能調味料でしょ。だから、日本人は何にでも醤油をかける。それでいて、醤油という調味料はまったく後に濁りを残さない、潔《いさぎよ》いところが日本人じゃありませんか」
「最近ね、フランス料理のシェフをやってるアタシの友達がね、店をたたんじまったんですよ。そいつは四年もフランスに行って修業して、腕の良いコックなんですがね……いろいろ頑張《がんば》ってやったけれど、日本にいる限りぜったい醤油には勝てないってんです。それで、もうやめた、ってんで……これほんとの話ですよ」
醤油がどれほど優れた調味料であるか、外国に暮らしてみると却《かえ》ってよく分るというものである。