海外旅行に行くというので、お茶漬《ちやづ》け海苔《のり》や梅干しを持参して、たとえばパリのホテルで梅干しなんぞを嘗《な》めている人の気が知れない。
いや、恥ずかしながら、自分も最初はそうだった。初めてイギリスに渡った時、私は梅干しだの日本茶だの、そういう故国の香りのするものをそれなりに持っていった。
ところが、行ってみて驚いた。梅干しなんかちっとも食べたくないのである。日本茶も、特にイギリス人にご馳走《ちそう》するとか、日本から年長のお客さんが見えたとか、そういう特別の場合を除いて、一向に口にしたいとは思わなかった。そのうちに、たとえば朝食に御飯を食べたいなどという気は全く失《う》せてしまった。それどころか、朝になるとあの薄いイギリスの食パンを焼いて、濃く美味しくいれたミルクティを飲んで、ベーコンエッグでも食べれば、それで至極満足した。あぁ、俺《おれ》もすっかりイギリス風になってしまった、と勝手なことを思いながら帰国すると、すぐにその日から御飯が食べたくなった。おやおや、やっぱり俺も日本人だったよなぁと思って、また次にイギリスに行くと、今度はその着いた日から、なんだかスイッチがパチッと切り替わるように、またまたパンと紅茶が良くなって御飯なんか願い下げだという感じになった。そこで私は考えた。
なるほど、食物の好尚というものは、かならずしも個人の嗜好《しこう》ばかりでもないものだ。あれは空気の感じとか、水の味とか、なにやらこう風土のようなものと密接に関《かか》わっているらしい。
思えば、ヘミングフォード・グレイの館《やかた》に住んでいた時分は、よく窓辺にヘンデルなんかかけながら、牧草地の風景を窓外に見て、紅茶を飲んだものだった。その風景とか風とか、光とか音とか、全《すべ》てが調和して、楽しい気分をもたらしてくれた。帰ってきて、日本の家で、同じようにしたいと思っても、日本的な風景の中を塵紙《ちりがみ》交換が大声で通ったりして、一向に調和がとれないのだった。なるほど、この場合は梅干しに日本茶がよく似合うわけである。