二十八歳で慶應の博士課程を終えたとき、私にはいまだ定まる職がなかった。恩師の森武之助先生はそのとき既に定年で退職され、私は舵《かじ》を絶え行方も知らぬ船に乗って漂流しているような心細い身の上となった。結婚して既に長男が生まれていた。どうしたものであろう、この先どこかに職を得ることは出来るだろうか、と暗然たる思いに苦しみながら、しかし、私は阿部隆一先生のもとでひたすら書誌学の勉強に励んでいた。
ある時、阿部先生のお供をして伊豆の横山重さんの所へ本を見せて頂きに行った。もうずいぶんな御高齢で、立居が少し御不自由のように見えた。「君は何をしているかね、仕事は?」と横山さんに聞かれて、私は「まだ職はありません」と答えた。すると、横山さんは顎《あご》を撫《な》で撫で「ホッホウ、それはエライ」と褒《ほ》めてくれた。無職を褒められたのは嬉《うれ》しいような哀《かな》しいような気分だった。
その頃、私が愛読していたのは、森鴎外の『澀江抽齋』である。この名高い史伝小説は「三十七年如一瞬 學醫傳業薄才伸 榮枯窮達任天命 安樂換錢不患貧」という抽斎の「述志」の詩で始まっている。三十七歳の抽斎は弘前《ひろさき》藩の医官で、既に三子の父であった。鴎外は書いている。「しかし抽齋は心を潛《ひそ》めて古代の醫書《いしよ》を讀《よ》むことが好《すき》で、技《わざ》を售《う》らうと云《い》ふ念がないから、知行より外の收入は殆《ほとん》ど無かつただらう」。これから先どうなるか分らない。けれどもこういう生き方を亀鑑《きかん》として、志を身後百歳《しんごはくさい》に致すのも天の命《めい》かもしれぬ、と私は一介の青書生《あおしよせい》に過ぎない己れと抽斎を重ね合わせて、そこにそこはかとない慰安を見出《みいだ》していたのである。
やがて今の職に就き、幸いがあってイギリスに渡った。抽斎が志を述べた三十七歳の年、私はイギリスのケンブリッジにあった。古典籍の目録を作るべく、ケンブリッジ大学図書館の片隅《かたすみ》で、心を潜めて書物に対峙《たいじ》していたのである。栄枯窮達は天命に任す、か……。苦しいことばかり多い研究生活の中で私は、いつも『澀江抽齋』を思った。
その後、私はイギリスに就いての本を何冊か書いて、世の中にいささか身の置き所を得るようになった。しかしそうなった今でも、『澀江抽齋』は常に座右にある。その岩波文庫の頁《ページ》を開けば、そこに抽斎の志と私の修行時代が息づいているからである。