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テーブルの雲37

时间: 2019-07-30    进入日语论坛
核心提示:不才なる人は いったいどういう子細で、本居宣長《もとおりのりなが》の『うひ山ふみ』を読むに至ったのか全く記憶がない。もし
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 不才なる人は……
 
 
 いったいどういう子細で、本居宣長《もとおりのりなが》の『うひ山ふみ』を読むに至ったのか全く記憶がない。もしかすると高校の古文の授業か何かで読んだのかもしれないけれど、漠然《ばくぜん》とそうではなかったような気がする。
 ともあれ、高校生の私は、この偉大なる学者の「学問入門」を読んで、ずいぶん嬉しい感じがしたことを今でもはっきり覚えているのである。
 宣長はこう書いている。(引用は、昭和九年刊、岩波文庫)
「まづかの學《まなび》のしな/″\は、他よりしひて、それをとはいひがたし。大抵みづから思ひよれる方《かた》にまかすべき也。いかに初心なればとても、學問にもこゝろざすほどのものは、むげに小兒《せうに》の心のやうにはあらねば、ほど/\にみづから思ひよれるすぢは、必ズ[#底本では小さい「ズ」]あるものなり。又面々好むかたと、好まぬ方とも有リ[#底本では小さい「リ」]。又生れつきて得たる事と、得ぬ事とも有ル[#底本では小さい「ル」]物なるを、好まぬ事得ぬ事をしては、同じやうにつとめても、功を得ることすくなし。(中略)詮《せん》ずるところ學問は、たゞ年月長く倦《うま》ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、學びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかゝはるまじきこと也」
 学問というものは、こうしなくちゃいけないという一定のきまりがあるわけではない、各自の能力と好き嫌《きら》いに従って、それぞれ好きなように勉《つと》めよというのである。当時、受験校として有名だった都立戸山高校の生徒だった私は、数学はこうしなくちゃいかん、古文はこうなくてはならん、英語は、地理は……等々とがんじがらめの状態にあったなかで、本居宣長ほど偉い先生が、各自好きなように励め、と教えているのを知って、あたかも百万の味方を得たような気持ちになったものだった。ただ継続は力なりとあるぞ、と私は、秀才ばかりひしめいていた名門高校で、いくら勉強しても所詮《しよせん》第一流の秀才にはかなわない、と諦《あきら》めていた心の闇《やみ》の中に、すこしく光が射《さ》して来るのを感じずにはいられなかった。
 続いて宣長はこうも言っている。
「才不才は、生れつきたることなれば、力に及びがたし、されど大抵は、不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有ル[#底本では小さい「ル」]物也」
 早熟な級友たちは早くも小説のような物をものし、または詩集を綴《つづ》り、深刻そうに人生の諸問題を討究して、能天気な少年であった私を内面から脅かした。
 その頃から、なにやら運命的に、文章を書きたいという気持ちを持っていた私は、級友たちの大人らしい(しかし実は幼稚な)同人雑誌なぞを横目で見ながら、いつかきっと俺だってと思って、ひそかに詩を書いたり小説めくものを作ったりして飽きなかった。どちらかと言えば、そのころの私は、学者になるよりは詩人か作家になりたかったのである。
 後に慶應義塾大学の入試の面接で「感銘を受けた書物は?」と聞かれて、とっさに「『うひ山ふみ』です」と答えた。「ほほう、どうしてかね?」と重ねて問われて、私は即座には答えることが出来なかった。なにやら要領悪く答えていると、「つまりは学問論的に興味を持ったということかね」というようなことを試験官が言った。なんだかちょっと違うなと思ったけれど、「はぁ、そうです」と答えた。
 その後、運命の悪戯《いたずら》で私は学問の道に進んだが、その間《かん》折にふれて、本居宣長のこの教えを思い出した。文芸評論的な「論文学問」の方に進まずに、まったく地味な実証主義の書誌学などという方面に進んだのも、ある部分自分の「不才」をよく自覚していたからである。つまり、努力と忍耐、そういうものにはちょっとは自信があったということである。そしてその忍耐と努力の実証の学問が、私にものを見る方法や文章を書く筋道を教えてくれた。なるほど「不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有」ったのである。
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