生涯《しようがい》にただ一度だけ、カンニングをしたことがある。
小学校の一年か二年か、今はもう記憶が定かではないのだが、ともかく、それは、国語の書取りのテストだった。
ごく小さい頃から、私は国語の読み書きが達者で、町を歩きながら、難しい看板の漢字などをすらすらと読んでは大人たちを驚かせたものだった。別段私の両親が、とりたてて英才教育を施したとか、そういうことではないのだが、言ってみれば、文字を読んだり書いたりということに、これはたとえば虫を取ったり裏山を探検したりするのと同じような、なにかこう特別な興味のようなものを自然と持っていた、ということだったのであろう。
当時、私たちの学校にはプールがなく、水泳の季節になると、ちょっと離れた赤松小学校という古い小学校まで、いわば「貰《もら》いプール」をしに行ったものだった。
その道々、質屋の看板をみて先生が「あれは何と読むか」と皆に聞いたことがある。質という字を「しち」と読むのはじつはちょっと特殊な読み方で、小学校の一年や二年では普通読むことは難しいのである。案の定、誰も答える者がなかったけれど、私はその読みを既に知っていた。そこで、背が小さくて一とう前を歩いていた私はすかさず、「シチヤ!」と答えたのだった。「おっ、よく知ってるなぁ」といって先生に褒められたのが、幼心にはとても得意だったに違いない。だからこそ四十年もたった今になってもそのことを覚えているのだろうと思うのだ。
ところが、ある日の書取りのテストに「老人」という字が出たことがある。その「老」の字のオイガシラの下の片仮名のヒのような部分を、私は左右反対向きに書いてしまったのだった。漢字には絶大の自信を持っていた私は、これが悔しくてならなかった。そこで私は、その部分をさっと消ゴムで消して直すと、ずうずうしくも、休み時間に先生の所へ持って行き、採点の間違いだと申し立てた。
担任の先生は、徳良一夫先生という、まだ大学を出たばかりの若い男の先生だったが、私の言い分を黙って聞き、それから、しばらくじっと私の目を見つめ「では、直してあげよう。これで百点だね」と言って、点数を付け直してくださったのだった。
子供の浅知恵で、そういうこざかしいことをしたのなど、大人の目から見ればすぐ知れたに違いない。しかし、先生はそれを叱《しか》ることよりも、「人はだませても自分の心は欺《あざむ》けない」という厳粛な事実を、そういう形で教えてくださったのだろう。
事実、私はこの行いを非常に恥じて、その時の恥ずかしかった心持ちを、今でもはっきりと思い出すことができる。無論、それから二度とそういうことをしたことはない。教育とは、つまりこういうことであるに違いない。
私は少年のころ大変にいたずらな手に負えないところのある子供だった。しかし、徳良先生は、このキカン坊の悪タレ小僧を不思議に可愛《かわい》がられ、運動神経が鈍くて鉄棒の逆上《さかあ》がりが出来なかった私に夏休み中ずっとつき合って、とうとう出来るようにしてくださったこともあった。
また、「林は字がキタナイなぁ、まるでミミズが這《は》ったようじゃないか!」といって日記を書くことを義務づけられ、毎日欠かさず添削をしてくださったのもこの先生である。
あるとき、江の島へ遠足に行ったことがある。江の島には頂上にちょっとしたタワーがあって、これに皆でのぼるのだが、私は昔から高所恐怖症で、そういうコワイ所へは一切のぼらない、ということに自分で決めていた。皆が行くと言っても、そんなことは私の知ったことではない、とそのように思った私は、「僕はこういう高い所へはのぼらないことにしていますから」と、頑《がん》として言いはって、ついにそのタワーの下の階段に一人腰掛けて、皆の下りてくるのをポツネンと待っていた。そのときも、徳良先生は「いやなら、行かなくてよいから、必ずそこで待ってるように」と私の自由にさせてくれたのである。
皆と同じことをするのは、日本のような風土の中では安全な処世術である。それに反抗することは、権威に盾突くことでもある。しかし、誰もが空を見上げているときに、一人だけ地面を見つめているということがあっても良《い》いじゃないか、と私は思うのだ。それはたしかに偏屈かもしれない、しかし、人が見ないことを見、人と違う所に目をつける、権威や俗論に目を曇らされない、そういう心の持ち方こそが、学問や文学にとって、じつは最も大切なことではないかと思うのだ。
「皆と同じようにする」というのが、日本の教育の基本にあって、個人的行動はとかく協調性がないというふうに忌避されるなかで、もしこのキカン気の少年の担任が徳良先生でなかったら……。私はつくづくと天の配剤の妙を思うのである。