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テーブルの雲39

时间: 2019-07-30    进入日语论坛
核心提示:信彦《のぶひこ》先生 慶應の国文科に、その昔、佐藤信彦という教授があった。この先生は、国文学者としては一流なのだが、世間
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 信彦《のぶひこ》先生
 
 
 慶應の国文科に、その昔、佐藤信彦という教授があった。この先生は、国文学者としては一流なのだが、世間的にはまったく無名でほとんど論文もなく、こんにちその名前を知っている人は多くはあるまいと思われる。
 短く刈り込んだ白髪に、金のツルの上品な縁なし眼鏡を掛けた姿は、写真で見る佐藤春夫にいくらか似ていた。その学問は折口信夫《おりくちしのぶ》の門流に属し、慶應では古代中古の文学を講じておられたが、私たちの学生時代はちょうどその定年前後に当っていた。なんでも偉い先生だということは聞いていたけれど、小柄《こがら》なこの白髪の老人のどこがそんなに偉いのかは、なかなか分らなかった。ただ、この信彦先生が学部を卒業した時の卒業論文は僅《わず》か原稿用紙七枚の短いもので、それがしかし、碩学《せきがく》折口信夫を驚倒させた名論文だったのだとか、その種の伝説が幾つも伝わっていたのである。
 私は学部の二年生の時に信彦先生の『源氏物語』講義を受講したが、飽きて途中から授業に出なくなってしまったのは、今から思うと残念なことである。思うに、そのころの若かった私には源氏の面白さなんかちっとも理解できなかったのに違いない。巨大な階段教室の、遥《はる》か遠くの教壇に、先生はぼつぼつと歩いて登壇してくる。それから、黒い皮鞄《かわかばん》を教卓の上に置き、その鞄を枕《まくら》にしてマイクロフォンを横たえると、鞄の中から紺表紙のテキストを出して、椅子《いす》に座ったまま坦々《たんたん》と講釈していった。巻は『竹河《たけかわ》』だったろうか、内容はもとより何も記憶していないのだが、開講後間もなく、先生が「源氏もこの辺まで来るとずいぶん文章が易しくなります。これは源氏のほうが易しくなるんで、諸君の実力が付いたんだと勘違いしてはいけません」とそんなことを言われて、口辺に微《かす》かな笑みを宿されたことが思い出される。
 さて、大学院では『万葉集』の演習を受けた。信彦先生は、私たち黄吻《こうふん》の学生たちにとっては大変に恐ろしい人で、大学院の小さな演習教室に先生が小柄な体を現すとそれだけで部屋中の空気が一気に引き締まるような気がした。恐ろしいと言っても、先生の恐ろしさは、乱暴な声調で人を脅かしたり、或《ある》いは鉄拳《てつけん》を振るったりというような野蛮な恐ろしさでは全然ないので、よく通る声で静かに話されるその存在それ自体から放射される理知の力の圧倒的な迫力とでもいうようなものであったろう。
 さて、あるとき万葉の授業で「……はしきよし妻のみことも 明け来れば門に寄り立ち、|衣手を折り返しつつ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》夕されば床うち払ひ ぬばたまの黒髪敷きて何時しかと嘆かすらむそ……」という長歌が出てきた。問題はこの「衣手を折り返しつつ」である。私たちは、新旧の注釈書をあれこれとひっくり返し、「袖口《そでぐち》をまくり返す」のだろうとか「裏返しに着て寝る」のだとか解釈して解ったつもりになっていた。むろんこれはそうすると恋しい人に夢の中で逢《あ》えるという、古いオマジナイなのである。すると、信彦先生はいっこうに感心しない顔で首をひねり、「喧嘩《けんか》に行くんじゃあるまいし」とか「それじゃまるで古着屋の店先だね」とか酷評を加えるのだった。そうなると私たちには何がいったい正解なのか、全然分らなくなった。ずいぶん長いこと考えさせた挙げ句、先生は「つくづく教育というのは忍耐ですね」とつぶやかれて、それからこんな風に諭された。
「いいかい、夢で逢いたい、というのは相手の魂に、どうかここへ飛んできて私のしとねに入ってきて、とそう呼びかける気持ちです。それなのに腕捲《うでまく》りしたり裏返しに着たりする理由がありますか? そんなことをしたら魂は逃げていってしまう。こういうことを考えてごらん、お母さんが小さな子供に向かって『さぁ、寒いからお母さんのお布団《ふとん》にお入り』という時、どうしますか。布団の肩口をちょっと折り返して、さ、ここへお入りって呼ぶのじゃありませんか。『衣手を折り返し』だの『夜の衣を返してぞ寝る』だのいうのは、つまりそういうことでなくちゃ呪術《じゆじゆつ》としての意味がない……」
 私はこれを聞いて、「アッ!」と思った。そうか、なるほど、解釈というのはこういうことか。文献だけに囚《とら》われて人間の自然な感情を閑却《かんきやく》すると、解釈は形骸化《けいがいか》した学匠沙汰《がくしようざた》に堕し、結局何も分らない。私はこの時の新鮮な驚きを二十年以上|経《た》った今でもくっきりと想起することができる。そうして、なるほど信彦先生は偉い、と思った。古典は古典にして、しかし古典ではないのである。古典は古典ながら、しかも「私」であり「今」なのだ、とそういうことを知ってから、私は確かに古典は面白いと思うようになった。それは一見「自分勝手な解釈」に似ているけれど、その実は全然違う。広い文献の見渡しがあって、しかもその向こうにいつも温かな目が「人間」を見つめている、その洞察力《どうさつりよく》のみがそれを可能にするのだ。論文の本数や世間的名声などでは計れない本当の教育者の姿を私は佐藤信彦先生の上に見たのである。
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