もう二十年近くまえに死んだ祖父は、海軍の軍人だったが、茨城の農家の出で、質素に育ったせいで食べ物にも酒にも一向に趣味がなかった。その祖父が珍しく私たちに食べ物のことで教訓をしたことがある。
「河豚《フグ》を食べてはいかん」というのである。彼はその昔、軍務で下関に赴いた折、御当地名物の河豚を出されたのだそうである。関東の人間は(関西人とはこと変り)じっさいそれほど河豚というものに執着をもっているわけではないし、郷里北関東の農村ではそういう物は口にしたことがなかったのであろう。祖父は、しかし、立派な口髭《くちひげ》を鼻下《びか》に蓄《たくわ》えた軍人として、まさかしりごみもならず、痩《や》せ我慢して恐る恐る出された河豚を食べてみた。河豚の毒は即効性ではないので、暫《しばら》くたたないと当ったか無事だったか分らない。
「ところがだ、その夜寝床に入ると、なんだかこの舌先がシビれるんだね。……あぁ、これでおれも一巻の終りだ。しまった、やっぱり喰《く》わなければ良かった、と、そのとき返す返すも後悔した……ああいうものは、士大夫《したいふ》たるもの、喰ってはいかんねぇ」
けれども、これは祖父の考えすぎだったと見え、翌朝祖父は無事に目を覚ました。
「アーアァ、助かった!」と、その朝祖父は九死に一生を得た思いがしたそうである。
それ以来祖父は終生河豚は口にしなかったばかりか、折々この話をしては禿《は》げ頭を撫《な》で撫で「河豚をな、喰ってはいかんよ」と諭したものである。
それで、私などもこの遺戒を遵守《じゆんしゆ》して、齢《よわい》三十に及ぶまで河豚というものは一切口にしなかった。しかし、三十歳を過ぎて、東横短大に就職すると、そこの学科長の久保田芳太郎先生は大変な食通で江戸っ子で、「家訓で河豚は頂きません」としりごみする私を、ある河豚料理屋に連れていった。そうして「まぁ、家訓は家訓として、一度死んだ気になってお食べなさい」と誘惑したのだった。「ではほんの一切れだけ、味見に」と河豚刺しをつまんだのが家訓の破り初めだった。その時河豚チリを散々に食べて、家に帰ると、なんだか舌先がシビれていた。「あ、しまった、やっぱりジイさんの教訓を守っとけばよかった」と甚《はなは》だ後悔しかけて、よくよく考えるとそれはチリ鍋《なべ》の熱さによる舌先のヤケドに違いなかった。
思うに祖父の遺戒は、ハッハ、アツモノに懲《こ》りてナマスを吹いていたのである。