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テーブルの雲44

时间: 2019-07-30    进入日语论坛
核心提示:珍景論 北区滝野川の陸橋を渡りながら、つらつら考えた。 中仙道《なかせんどう》が埼京《さいきよう》線をまたぐ陸橋は、よく
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 珍景論
 
 
 北区滝野川の陸橋を渡りながら、つらつら考えた。
 中仙道《なかせんどう》が埼京《さいきよう》線をまたぐ陸橋は、よくみると随分と古いもので、戦後間もなくか、もしかすると戦前に造られたものかと想像される。もっとも、確かめたわけではないから、ほんとのところは分らない。
 で、その、陸橋が妙である。どこが妙かというと、コンクリートの欄干に、変な凹凸《おうとつ》が付けてあるのである。詳しく説明すると、こうである。すなわち、その欄干は主として荒い川砂利があらわになっているコンクリの四角いフェンスのような部分と、その前後に、コンクリート柱に支えられた円筒形の鉄棒の手摺《てすり》のような部分からなる。そして、そのコンクリートのフェンスのような部分に、ちょうど額縁のごとく無用のデコボコが付けてあるのである。つまりそういう「モダンな」デザインを施してあるのである。じつを言えば、こんな形の橋はちっとも珍しくはなく、どこにだってあるありふれたデザインに違いない。よくよく見てみると、なるほど昔はこんな「モダンな」欄干をよく見かけたなぁ、と、そこはかとなく思い出されるに違いない。しかし、それではどうしてこんな所に、わざわざ面倒な工事を敢《あ》えてして凹凸型のデザインを施したのだろう。そんなことは当り前のことだが、つまりその当時「これがカッコイイ」と工事の責任者か設計者かが思ってしまったからなのだ。それを「カッコイイ」と思わせる何かこう風潮のようなものがあったからなのだ。
 さて、それで、こんどは月島から深川の方へまっすぐに延びている清澄《きよすみ》通りを走ってみる。佃島《つくだじま》の方から北上して、左に清澄庭園が展開する辺り、この辺に至って、「ア、ア、アアア」と思わない人がいたら、その人は昭和四十年以降に生まれた青年であるか、もしくは風景というものに全く感受性の欠けた人であるから、このエッセイを読んでも時間の無駄である。
 なにが「ア、ア、アアア」かというと、風景の時間がそこだけ止まっているのである。といっても、別段古い木造の建物が並んでいる京都の町屋というようなものを思い浮かべてはいけない。すぐにそういうものを思い浮かべる人は、すでに頭がかなり固定観念という病に冒されていると思われる。何の変哲もない、いや正確に言えば、昭和三十年くらいまでは何の変哲もなかった(けれどもしかし、今日ではすっかり|変哲のある《ヽヽヽヽヽ》)商店街の街並みである。お茶屋、ハンコ屋、菓子屋等々まったく当り前の商店街なのだが、その建物が実に古色|蒼然《そうぜん》としていて、珍しいのである。昔、まだあちこちの表通りに都電が走っていたころ、東京の「表通り」の商店街は、みなこんな風だった。だから、初めて、まったく偶然に、このところを通りかかった時、私の心は直ちに三十年余の歳月を遡行《そこう》して、野球帽をかぶり半ズボンで走り回っていた、あの少年時代へ回帰して行ったのだ。
 この商店街の建物は昭和四年に建築され、戦災にも遭ったけれど、当時としては珍しい鉄筋コンクリートで出来ていたため、通りに面した一部は焼け残ってその焼け残ったところに合わせて復元されたのだそうである。で、その建物の角のところに、やはり「妙なデコボコ」が付けられているのである。滝野川の陸橋とおんなじ趣味だ。これもまったくの単なる「デザイン」であって、機能的には無用のものに外ならない。建物の角のところが何となく寂しいので、ここに三段ばかりの四角いデコボコを施したらいかにも「モダン」で美しかろう、とその建売り商店街の無名の設計者が思ってしまったのに違いない。
 さて、そこから清澄庭園のほうへ回り込んでみると、そこに深川図書館という古びた図書館がある。これも多分表通りの商店街と同じ頃の建物ではないかと想像されるのだが、この壁にもまた、似たような三段ほどのデコボコが付けられていて、それがこの建物を、単調な官立建築の退屈さから僅《わず》かに救っているように見える。そんな所に目を付けて見ると、この図書館の裏口のところの塀《へい》に告知板のようなものが設置されていて、その両側で塀が雁行《がんこう》形にデコボコと入り組んでいるのも注目される。なんだか分らないけれど、そういう風に無用の凹凸を付けると、それがモダンな形である、と信じていた当時の一般的な風潮がこうした諸々《もろもろ》の例によって推定されるのである。
 いま、ロンドンの風景などを思い出してみるに、ちょうど一九三○年ころに建てられたいわゆる近代的なコンクリートの工場建築などの建物に、これとよく似た「デザイン」としてのデコボコ(または凹凸)が施されている例が少なくなかったように思われる。おそらくそうした近代的趣味はアメリカがその発信地だったのだろうと想像され、広く見れば、そのころのラジオとかトースターとかいった家庭用品のデザインにも、ある共通した凹凸の趣味が認められるであろう。
 ところで、大切なことは、こうした建物の趣味がいずれも無名の(たぶん建築会社の)設計者の想に出たものだということである。
 歴史というものの皮肉は、「当り前の事柄は残らない」ということである。歴史は普通の無名の市民が日々営んできた「当り前の生活」を、ある意味で無視するところで成り立っている。大きな事件、偉大な人物、そういう|普通でない《ヽヽヽヽヽ》事実の厖大《ぼうだい》な集積をわれわれは「歴史」と呼ぶのであった。そうしてみると、たとえば建築の歴史というようなものも、ガウディ、ル・コルビジェ、いわば普通でない建物、偉大な建築家の作品というエキセントリックなものの集積にほかならない。
 しかし、ほんとうのところ、戦後の木造平屋の都営住宅の哀《かな》しいような陰翳《いんえい》、公団住宅のあの殺風景な連なり、はたまた今日各地にはびこるタイル貼りの「高級マンション」、そういう無名のなんでもない建築の集積としての風景が、|その時代《ヽヽヽヽ》の風景というものなのだが、幸か不幸か、わが国では、ひとつの時代の風景を破壊してそれに置き換える形で次の時代の様式が現れる。一方、イギリスでは、旧様式は原則として保存されながら、並立的に新しい様式新しい風景が現れる。これはヴィクトリアン、あれはチューダーと数百年来の諸様式がそれぞれ肩を並べて重なりあいながら、全体として風景を形成していく国々と違って、わが国はどんな建築にも「耐用年数」という限度があって、それを超えることは原則として許されない。
 かくて無名性のなかに息づいている時代の様式やそれに支えられた風景は、やがて私たちの前から跡形もなく消えて行ってしまうであろう。その中であのデコボコのように、たまさかの僥倖《ぎようこう》によって生き残った「時代の破片」は、都市の片隅《かたすみ》で、人に知られないようなかそけさで、それらを「珍し」として観察する人を待ち受けているのかもしれない。
 今日ではすっかり「珍しい」ものになってしまったこれらの景色は、実はかつて最も普遍であったもの、つまり無名の人々の手に成る「無名の様式」のかなしい生き残りなのである。
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