「ミュンヘンにいるうちに是非ご覧になるといい」
ドイツ人のリヒト君は、そういうとニヤリと笑った。
「で、そのイングリッシャーガルテンてのは、どこにあるんです」
「じゃ、こうしましょう。今日の午後、イングリッシャーガルテンへ、一緒に行きましょう。ただし、今日はこんなに天気が悪いから彼らは出てませんよ、きっと」
イングリッシャーガルテン(Englischer Garten)というのは、ミュンヘン中心部にある庭園の名前である。そのまま訳せばイギリス庭園ということになる。
行ってみるとそこは、東京でたとえればちょうど日比谷公園というような位置にある大きな公園で、その日はたまたま土曜日だったせいか、散策する人たちで賑《にぎ》わっていた。この市街の真中の緑地公園に、何百人ものヌーディストが集まるというのである。なんだか俄《にわ》かに信じ難い話だった。ほんとにこの雑踏する場所にヌーディストなんか来るのだろうか。リヒト君は、ゆるゆると自転車を押して歩きながら、なんでもないことのように話した。
「ほら、あれがチャイニーズタワーです。ヌーディストはね、こっちじゃなくてもっと北のほうの、小川の岸辺あたりにたくさん出ます。むかしは警官が取り締まったのだけれど、そのうち衆寡《しゆうか》敵せずというか、あんまり切りなく来るので、しまいに諦《あきら》めて解禁というようなことになったんです、今は全く自由、ハハハ。天気の良い午後にね、行ってごらんなさい。ちょっと前にアメリカの雑誌が報道して世界中に有名になってね、そしたらますます数が多くなった。別にそこらへんの普通の道端に寝転がったりしてますから、誰でも見られますよ。でもね、写真を撮るのだけはよしておいた方が無難です。前にカメラを構えて殴られたってやつがいましたからね」
月曜日の夕方、図書館での仕事が終って外に出てみると、陽《ひ》はまだ中天にカンカンと照っていた。暑い日である。私はリヒト君の勧告を思い出して、そうだ、今ならヌーディストが見られるかもしれないと思って、再び自転車を借り、イギリス庭園の北の方へ行ってみた。行ってみて私は我と我が目を疑った。
ムムム、たしかにリヒト君の教えたとおり、公園の中央を流れる水の澄んだ小川の岸辺を占領して、おびただしい数の老若男女が、一糸|纏《まと》わぬ裸体で、のんびりと日光浴をしている。多くは若者で、アアッ、十七、八歳かと見える美しい女の人が、|私の歩いている道の方へ足を向けて《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》「大の字」になって堂々と寝そべってるじゃないか。
私は、ジコジコと自転車を押しながら、左右に視線を及ぼして、もっとよくよく観察したいと、心の中では思ったけれど、いざこういう状況になると思うようにはいかない、なんだかこっちが照れてしまって、不覚にも、妙に生真面目《きまじめ》に正面を向いて通り抜けてしまった。その間、おかしなことに「私は偶然、知らずにここを通りかかってしまいました」と、心中、自分で自分に嘘の言い訳をしたりしているのだった。
それでも視野の及ぶ限り観察を加えた結果では、男女ほぼ同数、おおむね百人以上は集まっているようだった。視野の端のほうで、天使のように美形の女の子が、小川から水を滴《したた》らせて上がってきた。オオッ、と思ってついそっちの方を振り向くと、折悪《おりあ》しく、続けてハゲ頭のおじさんがブラリと岸に上がってくるのを真っ向から見てしまった。なかなか思うようにはいかないのである。
中年の夫婦らしい人もあれば、小さな子供を連れた家族もあり、中には白昼この公共の場所で、しかも二人とも完全な裸体で、ぴったりと抱き合って熱烈にキスしているカップルもある。しかし決して猥褻《わいせつ》な感じはしない。私は、すっかり毒気をぬかれてしまった。
けれども、この町にかかる人々が集まるについては、じつは歴史的背景があるのである。
一八九二年まで、この町にカール・ヴィルヘルム・ディーフェンバッハ(一八五一—一九一三)という畸人《きじん》が住んでいた。この人はもともと画家であるが、一種の自然主義者で、菜食主義、裸体主義を標榜《ひようぼう》して、今で言うヒッピーのような生活をしていた。ちょうど彼がミュンヘンにいた頃、森鴎外もこの町に滞在して、ロットマンの丘というところで、ディーフェンバッハの半裸体の姿を目撃したことは彼の『独逸《ドイツ》日記』に出ている。
たかが裸体主義といっても、そこに哲学的思索が相添うているところにドイツのドイツたるゆえんがある。イギリス公園のヌーディストにも、なにせ明治のディーフェンバッハ以来の長い伝統があったのである。
イギリスに帰ってから、ある日、私はイギリス人の友スティーヴンと、ロンドンのハムステッド・ヒースを散策していた。
「なにしろ、ミュンヘンじゃ、町なかのハイドパークみたいな所にまるっきりヌードの人が群れてるんだもんな。いや驚いたよ」
「ウーム、ドイツ人はイギリス人に比べると肉体や欲望ということに肯定的だからして、その分|羞恥心《しゆうちしん》には欠けるってわけでね」
天気の良《い》い暑い日で、池のほとりではたくさんの男女が日光浴などをして遊んでいた。しかし勿論《もちろん》みんな着衣で、全裸の人などは一人もいない(フランスと違ってイギリスにはトップレスの人さえまずいないのである)。そう言いながらふと見ると、いましも立ち上がった若い男が、半ズボンのわきから、ダラリとペニスを露出しているのが目に入った。
「見ろ、あいつを。イギリス人だって肉体に対して肯定的なやつがいるぞ、ヒヒヒ」
するとスティーヴンは苦々しい顔を作って言った。
「ナント、あれは……ウーム、やつは下半身だけドイツ人との混血に違いない」