学術書というものが、どれほど採算に合わないものであるか、一般には理解の外であろう。通常、書店で売っている書物というものは、最低三千部くらいを初版で刷った場合、三千円前後の値段だろうか。しかし、学術書は一|桁《けた》違う。全部で五百部とか七百部も刷ればオンの字で、しかも再版はしないから、値段はそれに応じて目の玉の飛び出るような額になる。たかだか五百ページ程度の本が二万五千円などということも珍しくない。それでも、学者の先生たちは「著書」という実績が欲しいので、そういう常識外れの本を出したがる。そこが|付け目《ヽヽヽ》の出版社というものも、当然存在し、法外な値段を付けて本を「出してやり」、しかもそれを殆《ほとん》ど著者自身に買い取らせたりする。これだから学者は貧乏になる一方である。
それは、じつにばかばかしいじゃないか、と私は考える。
以前、ケンブリッジ大学の文献目録をイギリスで出版した時に、本文は難しい外字の多い日本語だったので、私たちは自力で「組み上がり版下」を用意しなければならなかった。まだ、ワープロやパソコンが未発達の時代で、予算も乏しかった。もう十年余り前のことであるが、ともかくシャープの「書院」というワープロで入力して版下を作ることになった。これが私とコンピュータのつき合いの始まりである。その後、ワープロもコンピュータも目ざましく発達し、この目録は結局MS—DOSマシンで編集してレーザープリンターで出力することになった。
しかし今、私は専《もつぱ》らマッキントッシュを使っている。入力・編集からオフセット版下作成までの一貫した作業と、グラフィック操作までを含めた流れの中で比較すると、おしなべてのMS—DOSマシンは小学校一年生、マッキントッシュは大学院の博士課程ほどの違いがある。
原稿を手で紙に書く、などということに私は何の価値も見いださない。そういうことをなんだか神秘化して「ものを書く」ことの秘儀のようにもったいぶる人を私は何人も知っているけれど、それは単なる「迷信」に過ぎぬ。
原稿を書くのは、EGワードというワープロソフトで書く。それをページメーカーというDTPソフトで編集して、版下にするときは、そのままライノトロニックなどの超高精細写植出力にかける。JIS規格外の所謂《いわゆる》外字なんてものは、DOSマシンのように蚤取《のみと》り眼《まなこ》で点々を塗りつぶしてばかな手間をかけて作ったりする必要は更にない。私はグラフィック画面に字を呼び出して、さっさと切り貼《ば》りして一文字一分間くらいでどんな外字も作ってしまう。マッキントッシュはそれを文字テキストの中に混ぜて貼り付けられるのでまことに都合がよい。漢文の訓点だろうと、謡《うたい》の節付けだろうと、まったく自由自在である。こうして版下まで自分で作ってしまうと、印刷|迄《まで》の間に「無知な他人」が介在しないので、校正を何度もするというような無駄な手間と時間は完全に省くことができるうえに、製版までのコストは約四分の一である。売れないことが前提の学術雑誌や書物などこそ、こういう方法がもっともふさわしいと思うのだが、やんぬるかな学者の世界は旧弊|固陋《ころう》にして、いまだに「紙とペン」信者が多いのである、嗚呼《ああ》!
ともあれ、私は、今では、どんな学術論文でも可能な限り自分で版下まで用意することにしている。時間も金も有限なのだ。無駄は無い方がよろしい。
で、「活版印刷の中に僕の論文だけマック写植オフセットで混ぜたって、見分けはつかないよ」と豪語しつつ、私は学校の紀要にこの方法で論文を出した。出来上がってきたのをみて、ある人が言った。
「すぐ見分けがつきますよ。だって林さんの所だけ版面《はんづら》がキレイ過ぎるもの!」