世の中には不思議なことがあるものだと思った。
ドイツにF博士という、天才にして奇人と称すべき人がいる。私は、さる人に紹介されてこの天下の変人のF博士の家へ泊めてもらったことがある。念のために言っておくと、F博士はれっきとした日本人であるが、ドイツ人にドイツ語を教えているという大学者である。
博士は南ドイツの美しい風光の中に、チロル風の瀟洒《しようしや》な住宅を建てて優雅に暮らしていた。
私が博士をお訪ねしたのは、もうずいぶん以前のことで、まだベルリンの壁もチャウシェスクもバリバリに健在の頃だった。西ドイツのすぐ隣には東ドイツという強大な(と思われていた)軍事国家があって、その背後には好戦的なることをもって恐れられていたソビエト赤軍がりゅうりゅうと腕を撫《ぶ》し、剣を磨《みが》いて控えているという感じだった。
「このあたりはこのように平和な美しい景色だけれどね、キミ、実際は剣呑《けんのん》きわまりないところですよ。なにしろ、国境のすぐ向こうに東ドイツ軍とソビエト軍が今にも攻め込んで来ようと臨戦態勢で展開している。そこでです、私はこの家を造るときに、もし戦争が起こっても少なくとも三年間は自活出来るようにありとあらゆる知恵を絞りましてね、この家を|備え万全《ヽヽヽヽ》の構えにこしらえたわけです……」
というわけで、彼はこの山荘風の家の地下に、なんと八千リットル入りの大石油タンクとセントラルヒーティング用の大型ボイラー、それとは別に夜間電力を使った三百リットル入りの給湯タンク、万一電力が途絶え、石油が無くなったときに備えて、居間には大きな煖炉《だんろ》をこしらえ、そこで燃やすべき三年分の薪《まき》をこれは家の軒下にぎっしりと積み上げてある……。
「これでまぁ三年間は大丈夫、ですが、これに使った費用はいくらだと思う? 日本円でわずか百二十五万円ですよ、たったの、ハッハッハ」
博士は意気|軒昂《けんこう》に笑うと、すぐにまた真剣な表情で眉《まゆ》をひそめ、言葉をついで言った。
「しかしね、何と言ってもここは東ドイツと地続きだ、戦争が始まるとたちまちソ連の戦車が攻め込んできますよ、いやこれは火を見るより明らかです。ハンガリーやチェコの時のことを見ても分るようにね、疾風迅雷《しつぷうじんらい》のごとく攻め込んできて、財産は略奪され、女たちはまあどしどし犯されちまうだろうね。そうなっちゃ大変だから、僕はベンツを買ったわけです。これだと丈夫で故障しないし、ずいぶんと荷物が積めるから、そこへ最小限の荷物を積んで、ソ連軍が来る前に家族を連れてさっさと逃げる。そうすると、たとえばどの街道が遮断《しやだん》されるか、僕はよく研究してかくかくしかじかの山道を通って、というとこまで調べてある。で、チューリッヒへ逃れ、そこから日本へ脱出する手筈《てはず》をつけてあるわけで……」
こういって、博士は会心の笑みを浮かべるのであった。フーム……だけど、そんなふうにさっさと逃げちまうんじゃ、三年分の備えは必要ないような気がするがなぁ、私はなんだか釈然としないものを感じずにはいられなかった(ところが、ソ連も東ドイツも雲散しちまった結果、実際は三年分の備えもベンツも必要なかった!)。
「でね、この家を建てるについては、ひとかたならず心を砕いたのですがね、しかし僕はここをずいぶんと安く手に入れたのですよ、じつは……」
こういって博士は不思議なことを語り始めた。
この家の敷地は、市が販売した分譲地だったのだそうである。ところが、この敷地には、北半分を斜めに横断するように水道管が埋設されていた。その水道管の上には家は建てられない決まりなので、どうしても家は敷地南端に寄せて建てなければならない。というわけで分譲地のうちこの区画だけが売れ残っていたのだそうである。困った市は平米九千円だった価格を八千円に値下げして博士に売ったという。すると千平米のこの区画について、市は百万円の損をしたことになる。この百万円の損害については、あげてここに水道管を通した水道会社に責任があるわけだから、市は水道会社に百万円の損害賠償を請求する権利があるであろう。そりゃそうですね、そこまではよくわかる。
ところが、F博士はここで俄然《がぜん》ハッスルしたのだった。「いいかね、キミ、僕はこの土地を市から譲り受けた、ということは、このもともと市が持っていた損害賠償請求の権利も共にわが手に譲り受けた、とこういうのが道理じゃないか。そこで、僕は水道会社に乗り込んで行って、この損害をうけた百万円を現在の請求権者たる僕に支払え、とこう要求したわけだ、はっはっは」
常識で考えると、博士は既にこの水道管のおかげで百万円得しているわけだから、このうえ水道会社に損害賠償の請求をする権利はないような気がするのだが、そういう常識が通用しないのが法律の不可思議なる世界で、またそれを請求しようなどと思い付くというのが学者の不可思議なる脳味噌《のうみそ》なのである。
さすがに、理屈|居士《こじ》のドイツ人の水道会社といえどもこれには呆《あき》れて、最初は「あなた頭がおかしいんじゃないの」という挨拶《あいさつ》だったそうであるが、そんなことでめげる博士ではなかった。何度も交渉の末に、博士はこれを裁判所に訴え出た。すると、まったく道理に合わぬことに、純法解釈的にはF博士の言い分が正しいのだそうで、勝ち目はないと見た水道会社の方は、ここに及んで俄《にわ》かに和解を申し込んできたそうである。
こうして、博士は、土地を百万円安く手に入れた上に損害賠償和解金六十万円を手に入れ、その土地の上に三年分の備えを施した要塞《ようさい》のような家を建て、なおかつ国外逃亡用のベンツを運転してドイツ人にドイツ語を教えるために大学に通っているのである。ハハハ奇奇妙妙。