ユーノス・ロードスターを買った。
私がこういう車を買ったについては、その「性能」を買ったのではない。「快適な居住性」を求めたのでもない。いわば、それによって幻の自分を、見果てぬ夢を、手に入れたのである。
エンジンは直列四気筒一六○○cc、DOHC自然給気百二○馬力の、どちらかと言えば凡庸な性能である。もちろん、二座ロードスターだから二人しか乗れないのだが、それも随分と窮屈なシートで身動きが出来ない。それで、なおかつ、乗り心地は世に言う「快適」とは正反対で、ゴツンゴツンと道路|凹凸《おうとつ》を忠実に拾って脳天に響き、幌《ほろ》を掛ければ小柄《こがら》な私でさえ頭が天井につかえるかと思われるくらい低い。荷物を置こうかと思うと、どこにもその場所がなく、物入れといっては車検証ケースもろくに入らない程狭いグローブボックスと小さなセンターコンソールがあるだけで、ドアポケットすらない。トランクだって、半分はスペアタイヤが占領していて鞄《かばん》を二つも入れたら一杯になっちまうほど小さい。そのほか、トヨタの車が標準で備えているような便利で小器用な装備は何一つありはしない。しかし、それでもなおかつ、こういう車をよくぞ作った、と心から賞賛の気持ちを禁じ得ないのだ。それはこういうことである。
私たちがまだ学生だったころ、「外車」といえば、クロームメッキをピカピカ光らかしたアメリカ車か、黒塗りの大きなベンツか、それでもなければイギリスのライトウェイト・スポーツカーをさして言ったものだった。とくにこのブリティッシュ・ライトウェイト・スポーツは、MGBとかトライアンフTR4とか、MGミゼットとか、オースチンヒーレー・スプライトとか、ちょっと変ったところではロータス・ヨーロッパとか、みんな元気で洒落《しやれ》ていて、私たち車好きの憧《あこが》れを掻《か》き立ててやまなかった。その時代には日本の車だって負けてはいなかった。ホンダが有名なS600・800を出して世界の喝采《かつさい》を浴びたのもこの時代だったし、トヨタも八○○ccの非力な空冷エンジンを軽量流力ボディに載せて、愛すべき二座スポーツクーペで頑張《がんば》っていたのだった。天才アレック・イシゴニスの設計になる名車ミニとそのスポーツチューンたるモーリス・ミニ・クーパーが世界のラリーやレースで大活躍をしていたのも、やっぱりこの時代だった。しかし、その頃《ころ》の私たちはまだ概《おおむ》ねお金に不自由していた学生の身分だったし、大学出の初任給が一万六千円などと言っていた時代に、百万円をゆうに超える値段だったミニなどは、まったく高嶺《たかね》の花だったから、私たちはせめてプアマンズ・ミニと呼ばれていたホンダのN360で心を安んじるほかはなかった。
その後、日産がフェアレディZを出して、アメリカで圧倒的なファンを獲得し、イギリス軽量スポーツの雄、MGBやミゼットを駆逐する勢いとなった。いっぽうMGBもミゼットも、アメリカの新安全基準をクリアするために、鼻先に妙な黒いウレタンバンパーをひっつけた結果、やんぬるかな大宮デン助みたいな顔になってしまい、あのダンディなイギリス流デザインは台無しになって、結局その命脈を絶ったのである。
それから幾星霜《いくせいそう》、私たち団塊の世代は、今や社会の第一線に立つ年代になった。それに従って相応に経済力も身に付けた。自動車も、一台だけじゃなくて、自分専用のセカンドカーでも持とうか、と思い始めた頃になって、私たちはハタと気が付いたのである。
もうあの瀟洒《しようしや》なロードスターMGBもトライアンフTRシリーズも遥《はる》かの昔に生産中止になって、今ではヴィンテージ・カーの範疇《はんちゆう》に入る。程度の良《い》いのを手に入れるとなると、容易なことではない。ホンダのS800も同じことだ。あのころのブリティッシュ・スポーツカーの性能などは鎧袖《がいしゆう》一触、ものの数ではないというような、鬼面人を驚かす高性能の車は、今や日本中に満ち満ちている。ミゼット程度の性能では、たぶん今日の軽自動車にだって勝てないかもしれぬ。
けれども、あのころ果たせなかった憧れを満たしてくれるような車は、今の日本、まるで無いに等しいじゃないか。ドイツのポルシェやBMWの向こうを張るような高性能スポーツカーや、ベンツを仮想敵に見立てた高級サルーンは、いくらでもある。けれども、高速道路を弾丸のように疾走することを金科玉条とするのでない、イギリスのライトウェイト・スポーツカーみたいな、愛すべき、そうして人間的な車は、いつの間にかどこかに置き忘れられてきてしまったらしい。
はたして、みんながポルシェみたいなスポーツカーを望んでいたのだろうか。はたして誰もがベンツみたいな重厚なサルーンを運転したかったのだろうか。
きっとそんなことはなかっただろうと私は想像する。
モーリス・ミニ・クーパーが生産中止となり、BLMCミニ、オースチン・ミニ、ローヴァー・ミニと受け継がれた今となっても、この「走る合理性」ともいうべき「ミニ」という車は、日本では依然として高い人気を保っている。発売以来実に三十五年余りである。それはイギリス本国よりもどこよりも、日本人《ヽヽヽ》が喜んで買う車なのである。それはなぜか、よく考えてみなければなるまい。
古典的というよりは原始的と言ってもいいくらいのエンジン。狭い室内。硬い乗りごこち。開かない窓、等々。およそポルシェやベンツなどのドイツ車とは正反対のベクトルをもったこの小さな名車が、売れ続けていることの意味を問え。私たち団塊の世代の男たちは、多くあの頃の夢を心に抱きながら、せめてその「夢の化石」とも言うべきミニを支持し続けてきたのだ。
ミニという車は、実際に運転してみると分かるけれど、こう、なんと言ったらよいか、四本のタイヤに直接自分の手足が接続しているとでも言ったらよいだろうか、すみずみまで自分自身の感性と神経でコントロールし、自分自身の手足で操る、「自分」と「大地」が直接につながっているという実感がある。それが貴いのだ。
こういうミニや、MGBを生んだイギリスという国はいったいどういう国であるか。
イギリスの田園は美しい。
緑に覆《おお》われた道は、左右に曲折し、上下に昇降して、進むにしたがい次々と新しい景色が展開する。イギリスの平野は、どこまでもどこまでも丸いゆるやかな丘の連続である。道は、丘から丘へ、見晴らしの良い穏やかな斜面をのんびりと進んで行くのだ。春は美しい若草、咲き乱れる花々。北の冷寒な天地は、夏といっても暑さを感じることはなく、乾燥した爽《さわ》やかな空気が、涼しい風となって明るい野を渡って行く。黄葉《こうよう》の秋の野には、折々細やかな軽雨《けいう》が降るけれど、それもたいして濡《ぬ》れない程度の雨だ。そして、緯度が高い割には、メキシコ湾流の影響で温かな冬。雪もたいして降りはしない。
ピクチャレスクなイギリスの風土のなかで、小さくて、きびきびと小回りが利《き》く車、そうしてなかんずく、広々とした空や野を、どこまでも見渡しながら走って行くことができるライトウェイト・ロードスターのような車が、どれほど喜ばしい存在であるか、イギリスの野面《のづら》の風景を知っている人は容易に想像できるに違いない。
以前、ケンブリッジに住んでいたころ、近所にモーガン・プラス8を運転して通勤する四十歳前後のイギリス紳士がいた。暗く曇った冬の朝、凍《い》てつくような空気を切り割《さ》いてモーガンの排気音が近付いてくる。ちらちらと雪が降っていようとも、彼は平然とオープンのまま、厳しい顔つきで、いつも同じ時間に走りすぎて行くのである。モーガンのごときも自動車としては全く原始的なもので、彼がこういう車に高性能や居住性を求めていたのでないことは一目|瞭然《りようぜん》である。では彼は単にカッコつけていただけなのであろうか……。私は、そうは思わない。彼は必ずや、その強い腕力や人並以上の忍耐力を必要とする旧弊なオープンカーを|運転すること《ヽヽヽヽヽヽ》に、余事《よじ》には代え難《がた》い「楽しさ」を味わっていたに違いない。
イギリスの田舎の道は狭くて曲りくねっている。そういう細い田舎の道を、イギリス人たちは昔、馬に跨《またが》ったり、または二人乗りの軽便な小型馬車を操ったりしながら、往還したのである。その|馬の代り《ヽヽヽヽ》の車たち。天地は小さく、隣町は近い。アメリカのように広漠《こうばく》たる荒れ地のなかに遠く離れて町々が散在しているというわけではない。ナニ、急ぐ必要はないのである。
どういう車を作るか、ということは、すなわちその国の風土と国民性を映しているのである。だから、イギリスのライトウェイト・スポーツが映しているものは、悠揚《ゆうよう》として急がない国民性と、小ぢんまりと完結した穏健で美しい風土だということができるであろう。
こういう点では、ヨーロッパ大陸はずいぶん違う。アウトバーンや太陽の道、とにかく、真っ直《す》ぐな大道を、まっしぐらに突っ走って行く。こういう所では小回りが利いて見晴らしが良いなどということは二の次である。まず丈夫で重厚であること、途方もなく高性能なエンジンやブレーキ、長い時間乗り続けても疲れない快適な居住性が第一に求められるだろう。ベンツやポルシェやBMWやシトロエンや、およそ大陸の自動車が志向するものは、イギリスのライトウェイト・スポーツとは正反対のベクトルであるに違いない。
ところで、翻《ひるがえ》ってわが国はどうであろうか。
狭い国土、細い道、穏健な気候(ただし雨の降り方は寧《むし》ろ熱帯的でイギリスとは全然違う)、明らかな四季の運行。それは大陸的であるよりはイギリス的である。二百キロを超える猛スピードで突っ走って行くような大陸的高速道路など薬にしたくもありはしない。しかも、日本人は、昔から自然に対して閉鎖的対立的であるよりは開放的融和的だったのではなかったか。
こうしてみると、アメリカ車のように巨大でドイツ車のように高性能な車は、ほんとうに私たちの心のなかに欲していたものだったろうか。ホントは、広々とした青天井のもと、気持ちのよい外気に顔をなぶらせながら、小さな車を思いのままにくるくると操縦してみたいのではないか。そのためには、色々な不便や性能の不充分なんかちょっと我慢したっていいじゃないか。
私は、やせ我慢してユーノス・ロードスターに乗る。そうすると、|わざと《ヽヽヽ》こういう不便な車を作ったマツダの技術者たちに喝采を送らずにはいられないのである。