『スタンド・バイ・ミー』という映画を見た人は、それが男の子たちの独立の物語であることに気が付いただろうか。
主人公の少年たちは、偶然なことから、河の向こうのどこかに、列車に轢《ひ》かれて死んだ少年の死体があることを知ってしまう。恐《こわ》いもの見たさでそれを見に行くというのが概ねの筋だてであるが、じつはこの「死体」というものそれ自体、「大人の世界」の不条理、言い換えれば「汚《けが》れ」の象徴に外ならないのだ。どこか、河の向こうのような別の世界には、恐ろしい不条理、忌《い》むべき汚れが私たちを待ち受けている。それを見ないで済ませようと思っても、そうはいかない。なぜなら私たちはみな大人になりたかったのだから。誰もみな、汚れのない子供のままではいられない、それが世の中の真実というものである。
女の子たちにとって、それは「初潮」というかたちでいやおうなくやってくる。確実に、極めて目に明らかなかたちで、しかも「汚れ」そのものの姿でやってくる。何の快感もなく(それどころか、しばしば痛みや不快感をともなって)、自らの意志も全く関与できないというのに、体のなかから突然に血液が流れ出てくる。それを止めることもできないし、その意味も自明なかたちでは納得されない。こんな不条理なことがまたとあるだろうか。女の子が男の子より一足先に、突然大人になってしまうのは、このために違いない。女の子たちが早々と大人になるのは、体が大人になって、それが大人の始まりであることを学校などで教育されるからではない。そういう単純なことではなくて、つまりは、彼女たちは不条理を知ってしまうからなのだ。そして、それゆえにまた、女の子たちの独立の物語なんてものは、映画として成立しないのである。
けれども男の子たちにとっては、そういう画然たる「出来事」のかたちでは大人の世界は訪れてはこない。男の子にとっての、たとえば「精通」などというものは、寧ろ「欲望」もしくは「快楽」ないしは「排泄《はいせつ》」の問題であって、少しも不条理なことではない。だから、それは男の子に大人の世界をかいま見せてくれるような事件ではついにないのである。どうだ、男どもよ、自分がいつ初めて射精したか、覚えているかね。少なくとも私は全く覚えていないが……。
さてまた、女の子たちよ、そんなこと知らなかったろう?
男と女は、こうして大人の世界にはじめて直面する「その時」を全然ちがったかたちで迎えなければならないのである。
ところで、『スタンド・バイ・ミー』だが、主人公の男の子たちが、家出をするようなかたちで河向こうの死体捜し探検に出かけて行くについて、いくつかの重要な場面がさりげなく描かれていることに注意する必要がある。
その第一は主人公(語り手=視点人物)のやや女性的な少年が、今はなき憧れの兄から貰《もら》ったヤンキースの野球帽を、町のチンピラ(悪=おとな)に奪われてしまうシーンである。大人と子供は、その子供の成長の過程では、むしろ対立的な関係に位置し、大人たちの抑圧は子供の自己実現を妨げる障壁としてその前途に立ちふさがる。彼にとっては、ここが大きな「試練」と見るべきであろう。
第二は、鉄道の鉄橋を渡って行く場面、枕木《まくらぎ》の下には深い谷底が透けて見える。それは、たしかに恐ろしい場所で、それを渡ること自体「試練」にほかならない。少年たちの成人には、およそこういう儀式的試練が必要で、それを民俗学の用語ではイニシエイション(年齢通過儀礼)というのだが、まぁそれはどうでもよい。このとき、少年たちのなかで一番デブッチョでドジな一人が、鉄橋をよつんばいになっておそるおそる渡っているうちに、シャツの胸ポケットにさした「櫛《くし》」をおっことしてしまう。何でもないようなシーンで、多くの人は見のがしてしまうかもしれない。しかし、この櫛は、いったい何であるか? たしか、この櫛は、少年が、死体発見者の名誉(?)に輝いて新聞社のインタビューを受けるときに「かっこつける」ためにという、いわば極めて幼稚なあるいは無邪気な目的で持ってきたものだったかと思われる。それを、彼は、|家から《ヽヽヽ》持ってきて、|試練の鉄橋の上で《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、言い換えれば子供の世界と大人の世界を隔てる河の上で、なくしてしまうのだ。こういえば、それが何を意味するか、明らかになったであろう。
つまり、それらの、「ヤンキースの帽子」や「かっこつけの櫛」は、少年たちと家族との絆《きずな》なのだ。
大人になるために、河を渡らねばならない。そのときには、家族という、母親の子宮に胎盤でつながって以来の「関係=絆」を捨てて行かなければならないのだ。あの映画は、そういうことをメッセージとして述べているのである。だから、向こう岸について、死体を発見して、そうして大人になった少年たちの表情は、ある達成感と不安とに満ち、しかしながら、えもいわれぬ「寂しい」表情に彩《いろど》られている。独立して、大人として生きていくことは、なによりも孤独を知ることであるからだ。「家庭の中の不条理」というかたちで、「大人」になる女の子たちには、こういう消息もおそらく理解の外であろう。
スピルバーグの『太陽の帝国』という映画を見ただろうか。ここでも、主人公は一人の少年である。彼は上海《シヤンハイ》に生まれ育ったイギリス人で、第二次大戦のさなか、運命のいたずらから両親と離れ離れになってしまう。そうして、各地の収容所を転々としながらも、けなげな明るさを失わない。そして、彼にとっての「家族との絆」は写真や玩具《おもちや》やガラクタの詰まった古い皮鞄《かわかばん》である。彼はいつも、どこへでもそれを持っていって、ベッドの脇《わき》に置いておくのだ。
しかし、唯一《ゆいいつ》の友であった日本人の少年飛行兵が、目の前でアメリカ兵に射殺されたとき、彼は、不条理と汚れをいやおうなく突き付けられる。少年は、こうして|心の中の河《ヽヽヽヽヽ》を渡って、�向こう岸�へたどり着くのだ。
このとき、彼はずっと大事にしてきた皮鞄を、泣きながら海に投げ捨てる。この瞬間が、この映画のクライマックスであることは疑いがない。思うに、ここでポーンと抛《ほう》り捨てられたのは、じつは鞄ではない。本当はその鞄に詰まっていた「少年時代」や「家族との絆」をこそ、彼は捨ててしまうのだ。それが、彼にとっての独立だったのである。
だから、後に、戦後両親とめぐりあっても、彼はもはや再び、あの飛行機好きの、可愛《かわい》らしい少年ではありえない。その大人になった少年の瞳《ひとみ》に宿る底知れない「虚無」を見るがよい。男の子が、大人になるというのはそういうことなのだ。スピルバーグが言いたかったのは、そういうことなのだ。
だから、これらの映画は、女の子が見ても分らない。そういう意味で、「ヤンキースの帽子」や「櫛」や「鞄」を捨てたことのない未熟な男が見ても、やっぱり分るまい。
男の子にとっての「独立」というのは、かくもかなしい出来事なのである。