米、がんばれ
私の家では、八郎潟《はちろうがた》干拓地の農家から、直接注文で「あきたこまち」を買って、もっぱらそれを賞味している。艶《つや》があって、甘くて、美味《おい》しい米である。これは、いつだったか、八郎潟の干拓地の農地の米が、農水省の減反政策の押し付けによって、むりやり青田刈りを余儀なくされ、それに反撥《はんぱつ》した志ある農家の青年たちが直接販売に踏み切ったところ、これを違法として、交通の遮断《しやだん》など様々な妨害が行われている、というニュースをテレビで見て、なんだか我慢がならない気がしたからである。遠く都の一市民として、これは放ってはおかれぬ、この上は義を以《もつ》て助太刀《すけだち》致す、とそういうような思いがしたからである。
だいたい、日本の農林官僚は目先のことしか見ていないのではあるまいか。農業は百年|河清《かせい》を待つ心がけでなければならぬ。三十年くらい前までは、食糧増産で笛を吹いて八郎潟を干拓しておいて、いざそれが出来たころには、米が余ったからとて、減反減反と農業を圧迫する、そしてその穴埋めに補助金を恵んでやろう、というような政策はもっとも下の下策である。
そうじて、日本の米が「高い」というのは誤った考え方である。
私は日本の米は全然高くない、と思っている。
たとえば我が家で買っている八郎潟のアキタコマチは大体五キロで三千円である。これは米の小売価格としてはまず中くらいに属するであろう。で、この五キロのパックを四人家族で食べてちょうど十日間で消費する。ちなみに私の家の家族構成は私と妻と、大学生の息子、それに高校生の娘、の四人家族であるから、これまた世の中の標準と言ってよいに違いない。
すると、計算はしごく簡単で、要するに四人の人間が一日に食べる米の量は五百グラム、金額にして三百円に過ぎない。つまり一人あたま七十五円。これで朝昼晩と息子の弁当までまかなって、充分足りるわけである。もっともうちはあまり大喰らいではないので、夕食でも御飯は小さな茶碗《ちやわん》に一|膳《ぜん》だけだから、大食漢の家ではこの倍も食べるかもしれぬ。でもね、それでも一日六百円に過ぎぬ。
仮に会社の昼休みに喫茶店でコーヒーを飲んだとする。そのコーヒー代は我が家の四人家族一日の米代に相《あい》匹敵するのである。また、百害あって一利なき煙草《たばこ》の一箱の金額がほぼそれに当る。気取った小さなフランス風ケーキ、これが一個四百五十円なんてのはこれまた珍しくない。するとこれ一個でうちの一・五日分の米が買える計算である。
もういいだろう。要するに、米の価格というものは、まったく高いものではない。全国の農家の方々が、暑さ寒さの中、営々として作った米が、こんな吹けば飛ぶような値段で手に入ることを私は瑞穂《みずほ》の国の八百《やお》ヨロズの神々に感謝したいくらいである。
食管制度の財政的|破綻《はたん》なんてことも、いっこうに構わないじゃないか、と私は思っているのである。生産者米価と消費者米価の逆ザヤだって、それが一種の国家の安全保障だと思えば何でもない。税金でその赤字を賄《まかな》うのは国民の等しくなすべき「我慢」である。
アメリカの米がどれほど安いか、そんなことは百も承知二百も合点であるが、そんなふうに安いからというだけの理由で、日本の農業を滅ぼして、米までもアメリカに依存するようなことはあってはならぬことである。それはまったく亡国の策にほかならぬ。米も肉も、麦も果物も、なにもかもアメリカの意のまま、とそうなったら、そのとき誰が一体日本国民の生命の安全を保障してくれるのか。よろしいか、アメリカは|日本国の為に《ヽヽヽヽヽヽ》アメリカの米を買えと言っているわけではないのである。事実はその逆である。
ところが最近、信州の野づらを眺《なが》めているうちに気が付いたことがある。減反政策が始まった頃には、あちこちに休耕田が目立ち、そこに雑草が繁《しげ》って「田園まさに荒れなんとす」という感じだったのだが、このごろでは、そういう荒れた田園はずっと減り、かわりに蕎麦《そば》の白く可憐《かれん》な花が風に揺れているところが多くなった。休耕するかわりに、蕎麦を栽培する農家が増えたのであろう。そういうふうにして賢く農業が再生されていくことは望ましいことである。これなら日本はまだ大丈夫だ、と私はひそかに喜んだ。そして、私たち都市生活者が農村を裏切ることがあってはなるまい、とも思った。