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テーブルの雲63

时间: 2019-07-30    进入日语论坛
核心提示:「おもてなし」の深層「おもてなし料理」という言葉がある。 誰かしかるべきお客様を招いて、普段は食べないような特別のご馳走
(单词翻译:双击或拖选)
 「おもてなし」の深層
 
 
「おもてなし料理」という言葉がある。
 誰かしかるべきお客様を招いて、普段は食べないような特別のご馳走《ちそう》をする場合の言い方である。そういうことは当り前で、世界中共通かと思っていると、そうではない。じつは、こういう考え方は、ある意味で日本的(又は東洋的)なのであって、その背後には「客」というものをめぐる民俗的意味付けが潜んでいることは、ふつう一般には案外気が付かれていないかもしれない。
「客」という字を訓でなんと読むか。「キャク」という読みは、もうすっかり日本語として定着した漢字音なので、今ではこれを訓に読む場合はほとんどない。
 しかし、昔の日本語の中ではしばしば訓で読まれることがあった。で、これは「まれびと」または「まろうど」と読むのである。どっちも同じ言葉で、要は「稀《まれ》びと」なのである。そうして、そのように言う場合、その「客」という観念の向こうには、何か大切な節々に、|まれまれ《ヽヽヽヽ》どこか遠い所からはるばるとやってくる「神(祖霊)」なり「精霊」なりというようなモノが印象されている。
 そのような意味で、もっとも大切なのは祖先の魂を招いて酒食をともにする儀礼であるが、その代表的な場は、正月とお盆である。中でも、お正月というと、一家総出であれこれとご馳走を作り、新年に客(目に見えぬ祖霊や、現実の生きたお客様や)を迎えて、盛大な「おせち(御節)料理」をいただくのは、そのもっとも分かり易《やす》い例である。
 したがって、お正月以外でも、お客を招いたときはどうしても「ご馳走」を作らなくては気が済まないというのが、われわれ日本人の習慣というか性癖というか、こうした傾向はじつのところ、まことに根が深いのである。
 家族と一緒にケンブリッジに着いて間もなく、ケンブリッジ大学の先生をしているC君(イギリス人)が、歓迎の意味で、自宅へ夕食に呼んでくれたことがある。
 さきに拙著『イギリスは愉快だ』にも縷々《るる》書いておいたとおり、イギリス人にとって、一番簡単な社交の場は「ドリンク」と称する一種のパーティである。この場合はたいていワインくらいが飲物の主たるもので、せいぜいピーナツやクラッカーといった程度のごく簡単なもの以外食べ物は出ない。この種のドリンクには、しかし、ちょっとした仕事の関係者とか、あまり親しくない人でも呼ぶわけで、われわれが知っているパーティというものに一番近い。次は「ティー」で、これは相当に沢山の食べ物と一緒に大量の紅茶(ミルクティー)を飲むのである。この場合はふつう自宅へ呼ぶ形式をとり、それゆえ、個人的にかなり親しい人しか呼ばれない。そして最後に「食事」に呼ばれるのであるが、こうなると明らかに人間的信頼で結ばれたある一定の人しか招待にあずかることはできないのである。
 こういう意味における「夕食への招待」だから、それはもちろんその背後に私とC君とのごく親しい人間関係が存在したわけである。したがって、彼らにとってはこの会食は大切な交際儀礼であり、呼ばれた方としても、それなりにワイン一本ていどの手土産を携えて行くのが礼儀である。
 してみると、食事への招待が「稀な事」に属していること、手土産というような儀礼が介在すること、という点でこの習慣は外形的には日本の「まれびと」を迎えての正式な会食にちょっと似ている。しかし……。
 食事が始まるまで、別の、まぁ日本風にいえば応接間とでもいうような部屋で食前酒を飲みながら、おしゃべりをする。食事のときに、ダイニングルームとは別の部屋で、食前酒とくつろいだおしゃべりに一時を過ごすというのも、イギリス式の正餐《せいさん》のひとつの約束事である。
 食事の用意ができた。ダイニングルームに招じ入れられて、見るとテーブルにはきれいにアイロンの当てられたテーブルクロスがかけられ、美しくしつらえができていた。で、その日の献立はどんな塩梅《あんばい》であったか。
「マカロニチーズとスイートコーンに茹《ゆ》でインゲン、デザートにチョコレートケーキ」、これだけである。
 マカロニチーズというのは、チーズを混ぜた一種のマカロニグラタンであるが、この日は、中にニシンがたくさん入っていた。これが、巨大なキャセロールに入って、ドカンと食卓に運ばれてくる。おかずも主食もありはしない。出たのはただこれだけである。
 正直にいうと、この中に入っていたニシンはひどく骨だらけだったので、嚥《の》み込むまでが大変な作業だった。マカロニやチーズとごたごたに混じり合った魚の骨を口の中で分別して、しかも礼儀を損なわぬように品良く口から出すのはかなり難しい仕事である。私は子供たちが骨を喉《のど》に刺しはしないかと気が気でなかった。しかし、さりとて他には茹でた野菜しかない。私たちは、ただ黙々と骨を噛《か》み砕いては恐る恐る嚥み込むのだった。
 この骨だらけのマカロニはちょっと特別な例だけれど、そうでなくとも、イギリス人のディナーはたいてい肉(または魚)一品、それに野菜を付け合わせて、という程度で終りである。そのかわりその一品はかなり大量にこしらえ、なおかつずいぶん大きなしかもヴォリュームのあるデザートを用意するのである。
 以上はかなり正式のディナー(夕食又は昼食)の実際であるが、親しい間柄の場合は、それほど大ごとでなく、もっと気軽に「どお、飯でも喰《く》ってかない?」というようなことを言われる場合もなくはない。
 我が友スティーヴンの場合がそうだった。
 彼の家にはしょっちゅう遊びに行ったものだったが、そういうとき、夕方頃になると、彼は親切に「ぼちぼち飯でも喰うかい」と誘ってくれることがあった。当然、私は遠慮する。すると、彼は「なに、遠慮には及ばない。何もたいしたものは作りゃしないんだからさ……」などと重ねて勧めてくれるのだ。んじゃ、というので一、二度ご馳走になったことがあるのだが、こういう場合はホントにその「何もたいしたものは作りゃしない」という言葉通り、食べるものは驚くべく質素だった。
「フランスパンとチェダーチーズだけ」ということもあったし、また「レンズ豆のシチューと食パン」ということもあった。そのいずれにしても、我々が「夕食」という言葉から想像するものとは大きく隔たっていた。
 さて、これらをはじめとして、概してイギリス人の食習慣に一つの法則めいたものを見出《みいだ》すとすれば、それは、「少種類のものを大量に食べる」ということである。
 こうした法則というか、イギリス人の癖のようなものは、階級の上下、場のケ・ハレを問わない。
 実を言うと、この「少種類多量」の原則はイギリスに限ったことでもないらしい。フランソワーズ・モレシャンさんに伺ったところでは、食通の国フランスだって、普通は「少種類多量」なのだそうである。結局、一つの品をたくさん食べたい、というのが西欧人一般の傾向だというのだ。だから、映画『バベットの晩餐会《ばんさんかい》』のように贅沢《ぜいたく》と技量の限りを尽くしたフルコースというのは、あれはやはり例外であるらしい。いや例外だからこそああして映画のテーマになり得るのであろうと思われる。
 
 以前、私の父が中国の知人を訪ねた時の話である。
 Kさんというこの中国人は、日本に留学していたことがあるのだが、その頃父はずいぶんKさんの面倒をみていた。その後Kさんは留学を終えて帰り、満州のある町で出世して偉くなっていた。父はKさんのもてなしに驚いて帰ってきた。そうしてこう言った。
「ごく普通の質素なアパートだったよ。でね、お料理は全部彼の奥さんの手料理さ。ところがこれが出ること出ること大きなテーブルの上に、作るに従って並べていくとね、やがてテーブルの上は皿でいっぱいになっちゃう、そうすると今度はその皿の上に二階だてに皿を重ねて行くんだね。途中まで数えていたけれど、もうとても全部は数え切れない。もちろんちょっとずつ食べたけれど、全種類はとうてい食べきれなかった……」
 中国の王侯貴族の豪勢なご馳走として「満漢全席《まんかんぜんせき》」というものがあることは、すでによく知られている。これは何日も食べ続けるというのだから、壮絶なる食事といってもよろしかろう。しかし、どうもこのときの父の経験談を聞くにつけて、中国では、かくのごとく壮絶なまでに多くの種類のものを食べるということが「ご馳走」という概念の基底にあって、そうすると一つ一つの品はどうしたって沢山は食べられないから、結果的に「多種類少量」ということにならざるを得ないのだろう、と思われた。日本の中華料理でも、たとえば十人いたら概《おおむ》ね十種類の料理を注文して、それを十人で少しずつ「分けて食べる」というのが適切だということになっている。こういう法則のもとでは、人数の多い盛大な食事ほど「多種類少量」が甚《はなは》だしくなるに違いない。しかし、それはなにも中国だけのことではない。
 私は普茶料理を愛する。普茶料理は、黄檗禅《おうばくぜん》の流れを引く中国料理の日本的一変形ともいうべき精進料理だが、私は東京下町のある有名な店に折々食べに行く。そうすると、非常にリーズナブルな値段のコース(たとえば一人前七千円くらいの)でも、なんと四十種類に及ぶ手の込んだ料理がずらりと出てくる。したがって、一つ一つの料理は本当に少ないけれど、全部あわせると相当な量に上るであろう。じじつそれで、いつも人生の幸せを感じるほどの満腹状態になって帰ってくるのである。
 思うに、こういう風に、ちょっとずつ沢山の種類の味わいを舌の上にのぼせたいというのは、中国・日本をはじめとする汎《はん》アジア的食味|嗜好《しこう》であるかもしれぬ。懐石料理、幕の内弁当、お寿司《すし》から、大衆食堂の日替り定食に至るまで、チマチマとあれこれ取り合わせて食べるのでなければ、なんだか満足が行かないのである。昔の、式三献などという礼式にのっとった正餐の献立なんかを見ると、こういう「多種類少量」はさらに徹底的で、次から次といつ果てるともなく多くの品が列せられるのである。そして、それが甚だしいほど、正式で礼にかなっていると看做《みな》されるのである。
 日本人がフランス料理などでも、アラカルトで頼むのでなくて、とかくコースで注文したがるという傾向も、およそこの流れのなかで捉《とら》えられるかもしれない。
 さて、こうした日本人の食習慣は、必然的に「まれびと」を招いた時(すなわち神とともにする正儀《せいぎ》としての会食意識が残っている)、「とにかく沢山の種類の料理を並べなくちゃ」という強迫観念となって現れる。正月のオセチ料理なんかでも、じっさい種類・量ともに食べ切れないほどの料理を用意しておかなければ安心できないというのは、決して「正月三が日は店が休んでしまうから」というような表面的な理由からではないのである。
 こういう無意識界にまで入り込んでしまった食習慣は、従って、なかなか変革しがたい底力をもっている。
 先日、テーブル・コーディネーターのワンダ宮島さんと話す機会があった。その時宮島さんが「どうして日本の方は、自宅へお客さんを招かないで料理屋やレストランを使うのでしょうか。それはとても残念ですね」と言われた。たまたまその場にいらした田村真八郎博士が「それは日本人は自分の家に自信がないからですよ」と答えられたけれど、宮島さんは納得されないようだった。
 思うに、田村さんの仰言《おつしや》ることも正しい。しかし、それだけではないだろう。もう一つの大きな理由は、このお客さんを呼んだときの、「とにかく沢山の種類の料理を並べなくちゃ」という強迫観念にある、と私は思っている。お客さんを呼んでおいて「マカロニグラタンだけ」というわけにはどうしたっていかない、とわれわれは考える。このことはテーブルを美しくセッティングするとか、そういう程度のことではとうてい償われない、無意識の民俗だ。なによりもそれは遠来の客、すなわち「まれびと(=神)」に対する無礼に当るのである。
 
 文化の違いは表層では捉えられない。そのもっと深層を探ってみると、長い歴史と無意識下に沈んだ信念が現れる。日本人も西洋人も、そういうことをよく知って、互いの儀礼の表面的な違いから感情の行き違いを起こさないようにしなければなるまいと思うのである。
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