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テーブルの雲66

时间: 2019-07-30    进入日语论坛
核心提示:母国語の問題 大学時代、もう二十年以上も昔のことになるけれど、同じクラスにAさんという女子学生がいた。色が白くてグラマー
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 母国語の問題
 
 
 大学時代、もう二十年以上も昔のことになるけれど、同じクラスにAさんという女子学生がいた。色が白くてグラマーな、ちょっと魅力的な大人っぽい女の子だった。
 けれども、正直言って、私はこの人がちょっと苦手だった。なんというのか、態度がふてぶてしくて、あからさまにいうと人を馬鹿にしているとしか思えないふしがあったからである。
 いま冷静に考えてみると、たぶんそれは私の思い過ごしで(私は恥ずかしいことによくそういう勘違いをする)、彼女の方ではべつにそんなつもりはなかったのだろうと思うのだが、そのときはそうは思えなかった。
 ともあれ、彼女は、たとえばいつもカーディガンの袖《そで》を通さずにルーズに肩にはおったりして、ちょっとだらしないモンローウォーク風の歩き方をし、教科書類はベルトで束ねて胸の前に抱えていることが多かった。まぶたにはかなり濃いアイシャドウを施し、たいていクチャクチャとガムを噛《か》んでいたし、あまつさえ、ジェーン・マンスフィールドのように逆毛立てたアメリカ人みたいな髪型をしていた。垢抜《あかぬ》けない都立の受験校から来た純情な少年だった私が、こういう女子学生になんだかついていけない気がしたのは、けだし当然かもしれぬ。
 しかし、私が彼女にもっとも不愉快なものを感じたのは、そういう外見上のことについてではない。外見だけのことなら、もっと派手な女学生だっていくらもいたのである。では、なにが私に拒否反応を起こさせたか。
 それは「言葉」である。たとえば返事のしかた。
 ふつうわれわれは、相手の話を聞きながら、もしそれが同じ年の人間どうしならば「ええ」とか「うん」とか言って相槌《あいづち》をうつだろう。もしそれが目上の人だったら「はい」とか「はあ」とか言うだろう。ところが、彼女は相手が同輩だろうと目上だろうとお構いなく、はすっぱに鼻へ息を抜きながら「ハハン」というか「ンフン」というか、ともかくそういうふうな返事をするのだった。
 彼女は、いわゆる帰国子女だった。高校時代アメリカにいたというのだが、この鼻持ちならない返事の態度はたしかにアメリカ生活の後遺症だったに違いない。いま、イギリスで長く暮らして、イギリス人とつきあうようになってみると、相手の言うことをたしかに自分として肯定しながら「分かりました賛成です、それで?」という含意の場合は「Yes」とか「Ya」というふうに相槌を打つけれど、意見として中立もしくは未定の場合はこの「ハハン」という返事になるのである。
 しかし、日本ではそういう受け答えのしかたは著しく礼を失した感じになるのであって、この点でAさんにはその気はなくても、結果として相手を馬鹿にしたように聞こえたわけである。これは大きな問題である。
 またここに別の帰国子女、H君という男の子の例がある。彼はお父さんの仕事の関係で長いことイギリスに育ち、高校生の時に日本に帰った。それで、ある名門都立高校に入ったのだが、そこではなかなかうまく適応できなかった。先生とうまく行かないのだという。
 私が彼に初めて会ったとき、正直な第一印象は「えらくナマイキな少年だなぁ」という感じだった。とにかく彼はまったく敬語を使わないのである。ご両親とも腰の低い立派な人格の方なので、その息子さんのふてくされたような、人を人とも思わないような態度には少なからず驚かされたものだった。しかしその後、少しずつ親しくなっていくに従って、このふてぶてしい態度が、必ずしも彼の人格を表現しているのでないことが分ってきた。打ち解けて話をしているときの彼は、けっこうはにかみやで、居丈高な感じはちっともしないのだったが、それでもやはり言葉遣いだけはついに直らなかった。これでは、普通の高校生を相手にしている高校の先生からは「鼻持ちならぬやつ」と受けとられてもしかたがないな、と思われた。しかもイギリス育ちで英語は自家|薬籠中《やくろうちゆう》のものである。高校の英語の授業などさぞまだるっこしいことだったろう。それゆえ先生の方から見れば「こいつ、ちょっとくらい英語が出来るからって教師を馬鹿にしやがって」と思えたかもしれない。
 こういう相互の誤解がだんだん増幅して、彼の場合不適応となって表れたものと推量された。
 いまここに二つの例を上げたのは、母国語の社会性ということについて述べようとするためである。言語には「意味を伝える」という機能と、もう一つ「心を表現する」とでも言ったら良かろうか、意味を越えた社会的コミュニケイションの機能がある。日本語の場合、特に敬語というすぐれて社会的な「言語の制度」が存在するので、ことはますます面倒である。|母国語として《ヽヽヽヽヽヽ》日本語を話すものは、常に自分と相手との年齢、地位、親疎《しんそ》、性別、好悪《こうお》など、関係性のファクターを勘案しつつ、適切な言葉を選択して使わなければならない(だから日本人は常に相手の年齢や地位が気になるのである)。これは英語国民には分らない日本人特有の問題に違いない。
 ところで、ではわれわれはどのようにして、その社会的言語システムを身につけるのだろうか。
 敬語は大人になってから俄《にわ》かに身に付けようとしても、たいていうまくは行かない。敢《あ》えて言えば言葉遣いは「育ち」で決まるのである。これは階級的な問題ではない。要は親がちゃんと社会の一員として定まる位置を持ち、それによってたとえば親類のオバサンと、またたとえば上司の人と、もしくは友人どうし、そのそれぞれの場合にどういう風に言葉を使うか、そのお手本をきちんと子供に示せるか否《いな》か、ということで全《すべ》ては決まってしまうということである。それは子供が「子供社会」の暢気《のんき》な言語環境から大人社会の複雑なそれへと成長していく段階で、自然と親を見習うことによって初めて身に付くのである。つまり日本人どうしの複雑な社会関係の存在が言語修得の前提として必要だということである。
 もし彼がその段階で外国にあって、特に外国の学校に通って育つ場合、日本語は「家庭の中」にしか存在しないということになる。家庭の中の言語は根本的にそういう複雑な社会性が欠如しているのであるから、彼はそれを見習うことができないまま、大人になってしまうであろう。考えてみていただきたい。親子は敬語を使っては話さないのが当り前である。また仮に親子で敬語を使って話すとしても、上下関係のある第三者が介在しないと敬語は本質的に意味を持たない。
 漢字や文学や、いわゆるブッキッシュな知識としての日本語は努力次第で身に付けられる。それは水村美苗《みずむらみなえ》さんの『續《ぞく》明暗』などが充分に証明している。しかし、いま言った意味での相対的社会的機能は、帰国子女の場合にもっとも身に付けにくいものに違いない。Aさんの「ハハン」もH君の不適応もじつはそういう深い根に生えた枝葉だったのである。
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