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テーブルの雲69

时间: 2019-07-30    进入日语论坛
核心提示:何が読みたいか? 本質的に私は読書家ではないので、定まった読書の方法など私の生活のどこを見回してもありはしない。しかし、
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 何が読みたいか?
 
 
 本質的に私は読書家ではないので、定まった読書の方法など私の生活のどこを見回してもありはしない。しかし、それでも、ちっとも困らない。
 世の中に横行している、「〇〇文庫百冊の本」とか、「青春時代に読んでおくべき名著百冊」とか、そういう決め付け方を私は好まない。それは傲慢《ごうまん》な態度というものである。百人には百色の顔があるように、人の心も、育ち方も、興味も経験もみな違う。だから、それぞれの心のなかの問題意識だって、一人として同じ人はない道理である。いやしくも問題意識が違う以上、「読むべき本」などと押し付けることが正しい態度とはとうてい思えない。「この本は面白いですよ」と勧めることは出来ぬでもないが、それとて、自分には面白くても他人にはどうだか、全然分からない。そんなことは、つまり大きなお世話なのだ。
 それゆえ、学校で夏休みの読書課題なんてのを出して、無理やりに、言うところの「名著」を読ませるなぞ、じつのところ感心したことではない、と私は思う。
 戦前、旧制高校の時代にはデカルト・カント・ショーペンハウエルなんてのが「必読書」だった。今日哲学科の学生か、よほど哲学好きの人でもなければ、そんな本を読みはしない。一昔前にはサルトルなんぞの実存主義あたりが一世を風靡《ふうび》していたが、現代の学生にそんな読書を求めても無駄である。つまり、「名著」と言い、「必須《ひつす》の教養」なんて言ったところで、せんずるところ「流行」に過ぎないのである。
 問題は、「今自分は何が読みたいか」である。青年時代の私にとっては、寺山修司や萩原朔太郎が大きな慰安だった。それは閉塞《へいそく》的な状況に対する、|幻想の抜穴《ヽヽヽヽヽ》だったからである。ともかく、今の自分にとって、一番興味が持てるような本を、|気楽に寝ころがって《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》読む。嫌《いや》になったらやめてよい。いずれ、本当に読むべき時がきたら、嫌でもまた読むだろうから。もしそういう時が来なかったら、それは結局自分には|縁無き書物《ヽヽヽヽヽ》なのである。
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