冬になると、とかく風邪が流行《はや》るゆえ、町を歩くのはなかなかに剣呑《けんのん》である。そもそも、私は常日頃《つねひごろ》どこへでも自動車を運転して行くので、電車というものには一年に数回程度しか乗らない。酒を飲まないから所謂紅灯《いわゆるこうとう》の巷《ちまた》にも出入《しゆつにゆう》せず、デパートや劇場といった人混《ひとごみ》みにも極力出ないことにしている。また煙草《たばこ》を自ら吸わないのはもちろんのこと、煙草を吸う人と同席するのも嫌である。私の車の中も執務室のなかも、いっさい厳重に禁煙としてある。そこで、おのずから喉《のど》や鼻の粘膜に抵抗力がなく、たまに電車に乗ったりすると、たちどころに喉が痛くなるのである。
これを防ぐのに、私として二つの方法がある。
一つは、外出したら、直ちに鼻から塩湯をグングンと吸い込んで鼻と喉の粘膜を洗滌《せんじよう》することである。この「鼻洗滌」を一日に少なくとも朝昼晩と三回、執《と》り行う。おおかたの風邪はこれで防げる(これは慣れると実に気持ちの良いもので、一日でもせずにはいられない。しかし、うまくやるにはちょっとした練習が必要で、いやナニすぐマスターできますが……)。
もう一つは、マスクを掛けることである。
それも、単なるガーゼのマスクじゃなくて、いろいろと空気を濾過《ろか》するしかけのついたハイテク式のやつが望ましい。近頃ではまた、風邪のウイルスを九十九パーセント食い止めるという画期的マスクが発明されたので、これは私などには大福音である。実際使ってみると何かとても良い感じがする。
そもそも、私は鼻のアレルギーがあって、特にダニやハウスダストに強い反応が起きる。ところが困ったことに私は書誌学者ゆえ、ホコリだらけの書庫に出入りして、ダニのたかった古い本なんかを扱わなくてはならない。すると、クシャミが連続して、涙は絶えず下《くだ》り、その症状はひどい花粉症と選ぶところがない。これに対しての唯一《ゆいいつ》の防止法はやっぱりマスクである。
というような次第で、私は書誌学の仕事をするときは、かならずマスクを持参して、それでものものしく鼻と口を覆《おお》い、辛うじて調査に励むというわけである。
で、こんなものはマスクと外来語で呼ぶくらいだから、当然、世界各国にひろく使われているに違いないと、信じ込んでいた。ところが……。
大英図書館で文献調査に精出していたときのことである。私は例によって何の疑いも感じず、白い大きなマスクを掛けて、江戸時代の古書に向かって仕事をしていた。
すると、どうも私のそばを通る人が、みなジロジロと見て通る。中には「ハッ」としたように視線をそらす人もいる。それがどうしてだか、私には分らなかった。
やがて、閲覧室の奥の事務所から、閲覧室長の中年婦人が出てきて、私の席に歩み寄り、いかにも不審に堪えないという表情で話しかけた。
「その顔に掛けているものは何ですか?」
「はぁ、これは、マスクというものですが……」
「いやまことに風変りなもので、初めて見ましたが」
「日本では珍しくも何ともないんだけれどなぁ」
「で、それは何のためにしてるんです?」
「本のホコリと乾燥した空気から鼻や喉の粘膜を守るためですが……」
そこまで説明すると、彼女はいかにも感心した風情《ふぜい》で大きくうなずき、
「まぁ、なんという素晴らしいアイディアでしょう」
と褒《ほ》めつつ、マスクの構造をよく観察して去った。
そう言われてみると、たしかにイギリスではまったくこのガーゼマスクというものを見かけない。見かけないばかりか売ってもいない。思うに、このマスクというものも、本来はヨーロッパから伝来したものだろうけれど、肺病の予防とかそんな風の意味付けを経て、日本で独自にここまで発達したものと見える。ではイギリスにはマスクというものが全く無いのかといえば、それはそうでもない。ただし、それは、町なかを自転車とかオートバイで走る人々が、ボロ車から排出される夥《おびただ》しい煤煙《ばいえん》や、風に舞うホコリから喉鼻を守るためにものものしく掛けている黒い皮製のあるいは合成樹脂製のガスマスクみたいなやつに限られる。そういうマスクをしている人は、従ってちょっと覆面でもしているように見え、そのままの姿ではけっして室内には入ってこない。入ってきたらそれは覆面強盗かなにかそんな異様な感じがするのであるらしい。だから、所もあろうに図書館の閲覧室の中で、本を見るのにマスクを掛けている私の姿は、いかにも不可思議で、怪しい不審者という印象を持たれたに違いない。それでわざわざ閲覧室長が私の真意を質《ただ》しに来たのだ。
われわれが無意識に使っているものが、時にヨーロッパ人には不気味な感じを与えることがある。マスクも実はそういうものの一つにほかならないのである。