どこへ行くにも自分で車を運転して行く。電車には一切乗らない。嫌《きら》いなのだ。
「お迎えのハイヤーを出しますから……」
講演などに行くときには、たいてい主催者からそういう申し出がある。にもかかわらず、私は車の運転席に座って、みずからハンドルを握って出かける。人の運転する車に乗るのも、やっぱり嫌いなのだ。
電車やバスのような公共交通機関に乗ると、見ず知らずの他人と不必要に接近接触しなければならないのが、まずなによりもいやだ。ほかにも理由はいっぱいあるのだが、ともかく、電車に乗ると一日中不愉快でしょうがない。ハイヤーといえども、運転手は赤の他人だ。赤の他人と同じ車に乗っていることは電車のなかにいるのと同じように不愉快だ。それに、私はあの後部座席に乗るのが非常な苦痛である。子供じみたことを言うようだけれど、前席のシートのヘッドレストが邪魔になって前の景色が見えないからである。だから黒塗りの高級車を運転手に操縦させて、自分は後ろの席でふんぞり返って新聞なぞ読んでいるオジサンたちの気が知れない。
ハイヤーやタクシーで行くのが喜ばしくない理由は、じつはもう一つある。自分の思うように止めたり曲がったりできないことである。それはこういうことである。
私は、運転席に座って車を転がしながら、その目はいつも四方八方を観察している。その心にはいつもあれこれの描写や文章が思い浮かんでいる。
「あ、あのビルの形は面白いなぁ」
そう思ったら、すぐにでも車を止めてそのビルを子細に観察し記録したい。「おお、この景色はなんだか懐《なつ》かしいぞ」とそう思ったら、その場に車を止めて、しばし、その懐かしさの因《よ》って来《きた》る所以《ゆえん》を探査したい。
そして、あるいはスケッチを試み、写真を撮影し、メモを取り、暫《しばら》くその風韻を網膜の裡《うち》に味わう。車にノートとボールペン、そしてカメラが常備してあるのはその為《ため》の用意である。
人の運転する車では、こうはいかない。
たとえば、町を走っていて、ふっと横を見ると、なんだか気になる路地がある、とする。早速、私は車頭を巡らしてその路地に入っていくだろう。車の入らないような細い路地だったら、どこか近くに車を停《と》めて、それからテクテク歩いて探訪に出かけるかもしれぬ。
たとえばまた、海岸を走っていて、突如、この崖《がけ》の下には何があるだろうと気になったりもする。その時はまた、近くの安全な所に車を置いて、ただ崖っぷちを覗《のぞ》くためにのみ足を運ぶかも知れない。
そういう時、もし他人が運転している車だったら、いちいち「あ、今のところで停めて」だの、「ここでUターンしてさっきの路地まで戻ってよ」だのとはなかなか言いにくい。いつぞや、地方に出かけたときに、地元の友人が車で迎えに来てくれた。それは有り難《がた》いのだけれど、彼の運転で走っている間に、十カ所くらいの、(私の目から見て)面白い景色に遭遇したのだったが、彼には一向に面白くもない風景だったので、ついに一枚の写真を撮るにも及ばず、あたら通過してしまったのは、まことに心残りだった。あっと思った風景との出逢《であ》いは、世に言う「一期一会《いちごいちえ》」だからである。
私は自動車の窓から、いつも景色を見ている。視線が、いつも風景の隅々《すみずみ》まで探索し続ける。が、その風景はひたすら「私の目」にとっての、「私の心」にとっての「面白味」だから人には分からない。それだけに、どこに何があるか、私にとっては津々《しんしん》たる興味の源泉なのだ。
風景に対して常に自由でありたい。それもまた、私が電車やバスを愛好しない大きな理由である。だって、電車の窓から眺《なが》めて「お!」と思うようなものが見えたとしても、電車やバスは止まってはくれないじゃないか。
だから、取材に行くときも、必ず出先でレンタカーを借りる。それで自分で運転して回る。そういう消息を理解しない、気の利《き》かない編集者などになると、
「では安全の為にハイヤーを雇いましょう」
などというのが困りものだ。
なにが安全なものか。はばかりながら私は、二十歳で免許を取って以来二十七年間、ほとんど無事故無違反に近く、毎日運転し続けて既に六十万キロほどにもなる優良運転手である。見ず知らずの他人におのれの大事な命を預ける気には、それゆえ決してならない。
私は、いわゆる観光名所というようなもの、ご当地一の名店なんてものに一向に興味がない。
興味は、常に「路傍」にある。
無名の、日常の、そこらの生活の風景の中にある。それを拾い集めるのは、ひたすら、自分の目と脳味噌《のうみそ》とである。観光ハイヤーなどに乗せられて、有名観光地を案内なんぞされるのは、おおきに迷惑、時間の無駄《むだ》である。そういうものは絵はがきとガイドブックでも見ておけば事足りる。
電車やバスやハイヤーで行くのは「点と線」である。
けれども、私は自分で運転して行くから、ものを見る範囲が「面」となる。この違いが分からないで、ただ表面に見えるもの、誰もが見るものだけを見て、それでなにかを見た積もりになるのは「愚か者の満足」である。
「そこに|在る《ヽヽ》ものを見よ」
それが私のモットーである。車はその為の足であり、目であり、手であり、そうして脳である。私にとって、車を運転するというのは、そういう営為なのだ。車窓から景色が見えるというのは、そういう事柄《ことがら》なのだ。