どう贔屓目《ひいきめ》に見ても、私の父方の祖母はお料理が上手だとは言えなかった。
林の家は、江戸時代には直参の武士だったということであるが、御維新で徳川様に随身して駿河《するが》へ下り、その後明治になって深川のほうで神官になった。これが林の家の本家筋で、私の方はむしろその分家に当るらしい。それで、私の曾祖父《そうそふ》は当時開校したばかりの海軍兵学校に進み、その息子(祖母の兄)も同じく江田島へ行った。ところが不幸なことに、どちらも若くして死んでしまったので、家の名を上げるに至らなかった。そこで、やはり江田島出の祖父は、家運再興を嘱望《しよくぼう》されつつ、林の家つき娘であった祖母の所へ茨城の農家から養子に来たのだが、これはしかし、結局大して出世もせず退役してしまった。
祖母は、夫が軍人で留守勝ちだった家を守り、三人の息子を皆ひとかどの学者に仕立てたばかりか、戦後は、戦争未亡人となった娘の子供たちをも訓育して、並びに学者に育て上げた。気も強かったけれど、ユーモアのセンスに富んだ立派なお祖母《ばあ》さんだった。
そういう育ち方の士族の娘だった祖母は、所謂《いわゆる》御家人言葉で話した。なにか美味《おい》しいものをひとに勧めるときは「なかなか、うもうござんすよ」などと言ったりした。また、もう今では使われない言葉であるが、皿などを隣同士で共用しようというときは「オモヤイにしましょう」と言ったりもした。私たち子供にものを食べさせるときは、決まってそれが何の薬であるかを教えるのだった。いちいちはもはや覚えていないけれど、黒豆なら「これは喉《のど》の薬」、シジミなら「目によござんすから」という調子だった。味付けは江戸風の塩辛い殺風景な味で、冷めたてんぷらなども一向に意に介しなかった。
この林の家に、一つの珍しい正月料理が伝承されている。別に名前はないのだが、私たちは「いも玉」と呼んでいる。じゃがいもを茹《ゆ》でてつぶし、なかにミジン切りにした人参《にんじん》と三つ葉またはパセリなんかを生のまま入れて直径三センチくらいの玉に丸め、粉と卵をまぶして浅い油で転がして揚げる、というもので、特にこれといった味付けはしないことになっている。しかし、濃厚な味のおせちに飽きた口には、これが不思議に優しく美味しい感じがするので、みな大変に愛好しているのである。なんだか和洋折衷で、どういう由来のあるものか分からない。けれどももしかすると、大昔の青山学院に学んだハイカラな祖母の、これは洋風発明料理だったのかもしれない。