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テーブルの雲73

时间: 2019-07-30    进入日语论坛
核心提示:私の御先祖主義 何年か前の一月の半ばのことである。 私たちは一家して墓参りに行った。 私の家のお墓は、父方は青山墓地の乃
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 私の御先祖主義
 
 
 何年か前の一月の半ばのことである。
 私たちは一家して墓参りに行った。
 私の家のお墓は、父方は青山墓地の乃木《のぎ》将軍のお墓の近くにあり、母方は烏山《からすやま》の寺町にある。それゆえ、この両方を順に平等にまわると、それでまったく一日つぶれてしまうのである。
 御彼岸でもないのに、正月早々、なんでまた墓参りなぞに行くのだと、人は怪しむかもしれぬ。物好きといえば物好きだ。しかも、べつにまた命日とかなにか、そういう特にいわれのある日だというのでもない。
 じつは、その年の二月に息子が高校入試を受験するについて、その合格をお願いしに御先祖様の墓へ詣《もう》でてきたのである。それから、ついでにこの一年の家中の安全と仕事の成功をも一緒にお願いしてきたのである。
 ふつうは、入試の合格祈願とくれば、東京だったら湯島の天神様かなにかそういうところへお詣《まい》りして、絵馬なんぞを奉納したりするものと相場が決まっているのだが、私はそういう風には考えない。
 思うに、天神さんは、あれは「他人」だ。いくら菅原道真《すがわらのみちざね》公がエラくても、私たち一家とは何の血縁もない。遺伝子的に全く無関係である以上は、天神さんが特に私たちの願いだけを叶《かな》えてくれるという義理もあるまい。では御賽銭《おさいせん》が多い方の願いから順に叶えるのかというと、まさかそういうわけでもないだろう。それにこの時期、全国の天神様には受験生が津波のように押し寄せる。そうすると、天神さんがいかに全能の神であろうとも、その無数の願いを逐一聞き届けるのは、なかなか難儀なことに違いない。そうなると、やはり全部は聞き届け兼ねるという場合だってなくてはならぬ道理だ。
 そこへいくと、青山と烏山の地下に眠っておいでの御先祖たちは、これは正真正銘私たちの血縁者で、他に赤の他人の願いを聞き届けるいわれはまったくない。ただひたすら、直接自分たちの血を引く(すなわち遺伝子を継承している)子孫のためだけを思っていればよろしいわけである。したがって、もちろん私たち子孫以外にその墓に詣でる人などあるはずもなく、雑踏をかき分けて参詣《さんけい》する必要もない。しんしんとした寒気《かんき》と静けさの中を、ただ私たちだけが苔《こけ》を踏んで訪ねて行くばかりだ。
 まずはよくよくことわっておかなくてはならないのだが、私は本来的に全く無宗教の人間である。八百《やお》ヨロズの神も極楽浄土の仏も(キリストやアッラーはもちろんのこと)信じちゃいないのだ。坊さんや神主が偉いとも思わぬし、牧師や神父が清廉《せいれん》だとも信じない。みんな同じ人間であって、それ以上でも以下でもない。したがってまた、葬式だの法事だの、あるいは御彼岸だのクリスマスだのというようなことにも、まるで関心がない。そういうのは、単なる社会的約束ごとに過ぎないので、そんなときだけ敬虔《けいけん》そうな顔をして御経を上げてもらったりすることに大した意味があるとは考えない。
 したがって、これから私の「御先祖主義」について、すこしく述べてみたいと思うのだが、それは何等の宗教的色彩をもつものではない。あえて言えば日本の民俗的原始的死生観とはなにがしかの縁を有するかとは思うけれど、それは一般的な意味での「宗教」とは違うものであるに違いない。いや、そういうドグマ的倫理的な宗教の体系とは全然無縁なもので、むしろ、家庭とか血縁とか遺伝子とか、そういうレベルでごくごく個人的に漠然《ばくぜん》と夢想している事柄《ことがら》に過ぎないのだということを、ここで特に強調しておくのである。
 
 私たちが現在のように何かというと墓参りに行くようになったのは、決して古くからのことではない。はっきり言ってしまえば、それは自分自身子供を持つようになってからのことである。
 私たち夫婦には、どういうわけかなかなか子供が授からなかった。三年近い年月が過ぎて、もしかしたらもうこのまま子供には縁がないかもしれない、と少し諦《あきら》めかけていたころ、ひょっこりと子供が出来た。
 そうして男の子が生まれた。
 病院へ駆けつけてみると、ひよわそうな赤ん坊がちんまりと寝ていた。痩《や》せていてたいして赤くもなく、しわくちゃの顔は数年前に死んだ私の父方の祖父に似ていた。生まれたばかりの赤ん坊と九十一歳で死んだ祖父が似ているというのも妙な話だったが、口をあけてアクビなんかをすると、たしかにあのなつかしいお祖父《じい》さんの面《おも》だちが、そこはかとなく想起されるのだった。そして、この子は祖父が死んでから、林の家に初めて生まれた男の子だったので、
「この子はきっとお祖父さんの生まれ変りだろう」
 と、私たちはみなで言い言いした。
 けれども、どこの家でも同じことだが、子供を育てるのは、しょうじき大変な大事業だった。四六時中飲ませたり食べさせたり、オムツをかえたり、おぶって寝かせたりして、特に母親たる妻は寝る暇もなかった。
 そういう子育てというものを実際に経験してみると、なるほど子供というものは親の「時間」と「生命力」を問答無用で吸いとって、それで大きくなるのだということが有無を言わせず実感されるのだった。
 しかし、それで、私たちがこの子に何かを求めようという気になっただろうか。私たちの生命力や時間と引き替えに、夢中で子供を育てたそのことに対して、私たちは何ものをも求めようとは思わない。いつかこれを「親孝行」みたいな形で返してもらいたいなどという気持ちは、露ほどもありはしない。年取ってから老残の身を養ってもらおうために今から掛けておく一種の保険みたいな心持ちで子供に向い合ったことはただの一度もない。
 子供は、無事に大きくなって、立派なひとかどの人間になってくれさえすれば、それで全ての私たちの努力は報われるのである。道を誤って、下らない人間になってしまわれては困る。そうならないためには、私たちは、どんなことでも、できる限りの力を尽くすであろう。
 私は「学問のためには命を投げうって」などという気はさらさらない。まして、いま勤めている学校や、あるいはプロジェクトなどのために身命を賭《と》する覚悟なんぞ毛の先ほどもありはしない。それは、単なるビジネスに過ぎない。私たちが自分の命を賭けるのは、自分と自分の子供たちのためだけである。
 すなわち、「子育て」という事業が、他のいかなることとも違っている点は、それが全く無償の努力であるというその一点である。そのほかの行いは、たとい一見無償の奉仕のように見えようとも、そこには意識するとしないとに拘《かかわ》らず、きっと何らかの反対給付をもとめるなにものかが介在するであろう。ところが、自分の子供を育てることに限っては決してそういうことがない。
 したがって、黙っていても親は子供のために無償の努力を涙ぐましく重ねるであろう。しかし、子供はそれを親に返すには及ばない、と私は考える。自分が親の時間と生命力を吸いとって大きくなったぶん、こんどはそれをさらに彼らの子供たちに注げばそれでよいのである。それで収支決算はちゃんと償われる。無償の愛情は、常に一方通行なのである。
 私たちはそれからまた三年|経《た》ってようやく第二子をもうけた。こんどは女の子だった。
 こうして、子供を育てながら、私たちが悟ったことは「自分の子供は無条件に可愛《かわい》いが、他人の子は可愛くない」というこのあまりにも当り前なことだった。
 こういういかんともしがたい事実から推量して、もし自分の子供が、他人の子供によって危害を加えられるような状況に遭遇したとしたら、私たちは躊躇《ちゆうちよ》なくその他人の子供を排除して自らの子供を保護しようとするに違いない(だから、たとえば『菅原伝授手習鑑《すがわらでんじゆてならいかがみ》』みたいに、忠義のために自分の可愛い子供を殺すなんてことには、なんのリアリティも同情も覚えない。そんな芝居は人情の自然に反するので、私はちっとも面白いと思わないし、ましてや感激なんか全然しないのである)。
 そこで、(ここのところには若干の問題が残るけれど)、もしこの世に「不滅の魂」または「霊魂」というようなものが存在すると仮定するならば、その霊魂は何を思うだろうか、と想像してみる。もしまた、仮に、私が何らかの事情で死んでしまったとする。その場合、霊魂となった私が、何を一番願うだろうかと考えると、それは疑いなく自分の血を引く子供たちが無事に立派に成長してくれること、そのことだけを痛切に望むに違いない。目に見えぬ霊魂になった私は、いつも子供たちのそばに居て、彼らが危険な目に遭わぬように、剣呑《けんのん》な道を取らぬように、彼らの心に向かって必死に働きかけるものと思惟《しゆい》される。それは私の妻にしてもまったく同じことだろうし、私以外の概《おおむ》ねの人たちも同じであるに違いない。
 こういう事実を、いったいどのように説明できるだろうかと私はかねがね考えていたが、最近動物行動学者の竹内久美子さんの『男と女の進化論』など一連の著作を読んで、なるほどなぁ、と横手を打った。
 おしなべて生きとし生けるもの、この現にある生命体は、その太古から連綿と継承されている「遺伝子」の「乗物」に過ぎない、というのである。私たちは、こざかしいことを言っていても、じつはこの「利己的な遺伝子」のために動かされている有機的機関と説明できるというのである。したがって、かならず自分の遺伝子を持った子供は可愛いと感じ、それは他人の遺伝子を持った子供と排他的に対立的に認識されるというわけである(詳しくは竹内さんの著書をお読みください)。ホトトギスの卵をウグイスが温めるというような一見すると無償の奉仕のように見える行為でも、よく考えると、それによって自分の卵が蛇《へび》などに食べられてしまう確率は確実に低くなるわけで、なるほどちゃんと親の子供(=遺伝子)保護という面で辻褄《つじつま》が合っているではないか。
 子供をつらつら観察していると、この「遺伝子」というものはじつに玄妙なるものであることが痛感される。いま、私たちの二人の子供についていえば、顔の一つ一つの部品、ものの考え方、手足の運動のスタイル、そのどれをとっても、複雑精巧に私たち両親の遺伝子のモザイクであることが分る。手の格好は母親そっくりであるのに、楽器を弾くときの指の動かし方はなんと父親に生き写しであるとか、これはたしかに生まれつきの何かで決まっていて、いくら練習してもそれで指の動かし方が変るというものではないのだ。そういう一つ一つの不可思議としか思えないような仕組みを詳細に観察した結果、私たちは一つの結論に到達した。すなわち、性格や行動様式がたしかに遺伝子によってコントロールされている以上、「意志」のようなものもまた、遺伝子の上に何らかの形で、精妙に書き込まれているに違いない、と。
 私は、霊能者でもなければ(いや寧《むし》ろ私はそういう能力に人一倍欠けるほうである)、動物行動学者でもないから、その辺のところがほんとうはどうなっているのか、よくは知らない。しかし、一種のロマンティックな想像として、自分が死んでも、そのあと子供や孫たちが自分たちの願いや意志までも遺伝子のなかに継承していて、それを霊魂の私たちが守ってやれるとしたら、なんだかこの上ない心の慰安を感ずるじゃないか。
 こうして、私は、私たちの体のなかに、私たちを愛してやまない御先祖たちの遺伝子の意志が宿っていると考えることにした。そしていつも御先祖様が私たちの周辺にいて、有形無形さまざまな形で私たちを守ってくれていると思うことにしたのである。
 禿《は》げ頭をつるりと撫《な》で回しながら、茨城弁で面白いことを言っては、笑っていた海軍職業軍人の祖父(私の息子として生まれ変ったと私たちが言っていたのは、この祖父のことである)。祖父は軍人としては一向にウダツが上がらなかったけれど、しかし、彼はじつは軍人なんかには向いていなかったのだ。そのほんとの意志は文人として生きることだったに違いない。だから、三人も息子(実際は四人いたけれど一人は早世)がいながら、あの軍国時代に、誰一人職業軍人になろうとはしなかった。しかも、西洋史学者の長男(すなわち私にとっての伯父)が徴兵で海軍に取られたとき、祖父はこっそりと海軍上層部に手を回して、彼が危険な前線に配置されないよう、ひとかたならず努力したらしい。そうして、次男である私の父は経済学・社会工学、四男の叔父は国語学の、いずれも学者になった。これをはじめとして、一族|殆《ほとん》ど学者の道に進んだのは偶然や環境のせいばかりとは思えない。たしかに私の家に共通の遺伝子の意志が存在したという気がしきりとするのである。
 いっぽう、母方の祖父はもう私が小さな子供の頃に死んでしまったので、あまりはっきりした記憶はないのだが、なんでもよく晴れた秋の日だった。私は祖父に肩車されて、当時|堀切《ほりきり》の裏町にあった祖父母の家へ行ったのだった。電車のガードがあって、それをくぐると道が直角に曲っていた。その曲り角に裸電球の街灯があって、私は祖父の肩の上でそれらの風景がゆっくり動いて行くのをなんだか珍しいものでも見るように眺《なが》めていた。記憶はただそれだけのまったく断片的なもので、どういう意味があるのか分らない。
 この祖父は、自身非常な工夫家で、大学を出るような学問こそ無かったけれど、次々に新式の機械などを発明したものであったらしい。
 祖父母の家の庭には鶏が飼われていたが、鶏が卵を産まなくなると、祖父が自分でつぶして肉にして食べた。釣《つ》ってきた魚を捌《さば》いたり、おまじないを唱えながら正月の七草の調理をしたりするのも、みな祖父の役目だった。私の母は、女の子ながら、顔も性格もその祖父にそっくりだった。新しいもの好きで、手先が器用で料理が得意、工夫を好んで音楽的素養があるというのは、そのまま母を通過して私の遺伝子の一部に組み込まれている。こうした共通の性格を持った孫の私を、祖父はこよなく可愛がって、重いのにいつもそうやって肩車で家へ連れて帰ったのだそうである。
 
 今思い出しても、不思議でならないことがある。
 詳しくは「運命の力」に書いたけれど、私たち夫婦は大学時代のクラスメイト同士だった。それが卒業してからの不思議な偶然の出会いによって唐突に結婚し、三年あまりたって息子が生まれた。
 その頃私は、まだ慶應女子高の非常勤講師で収入などは笑っちまうような薄給だった。しかし、有難《ありがた》いことに学問に対して非常な理解を持っていてくれた双方の両親のお蔭《かげ》で、経済的にはちっとも困窮するということなく、ひたすら地道な学問(書誌学)に励んでいたのである。やがて東横学園女子短大の講師になったが、そうなっても、私の最大の希望は、どうにかして母校慶應の斯道《しどう》文庫という研究所に、恩師の後任として戻りたいということだった。それは祈るような気持ちだった。
 いよいよその後任人事が決まるという時が来た。
 私はその直前に、やはり家族揃って墓参に出かけた。
 青山墓地に着いて、閼伽桶《あかおけ》や花束を持ち、墓地の細道を歩いているときに、息子が「お花は僕が持つよ」と言った。そこで彼にそれを持たせて歩き始めた。すると何としたことか、花束が息子の手からスルリと地面に落ちた。慌《あわ》てて拾い上げると、花束の真中の大きな白菊の花が、ポロリと落ちていた。首の落ちた花を見て、私は「あぁこれは人事は駄目だよということだろう」と思ったが、果たせるかなそれはそのとおりになった。私には、このときの出来事は単なる偶然とは思えない。私の行く末をいつも見守ってくれている先祖の魂が、「もう慶應に恋々とするのはやめたがよい。もっと良い道があるぞ」と前もって知らせてくれたものと思えるのだ。
 それから間もなく、私はもはや母校に戻ることを諦め、新しい道を求めてイギリスへ渡ることになった。そこから、すべての運勢が開けてきたのである。
 いま、当時を振り返って、もしあのとき私が慶應へ戻っていたらどうなったろうか、とつまらぬ想像をしてみることがある。そうだとしたら、おそらく私の人生は今とは全然違ったものとなっていただろう。けれども、それが今のこの道より良いものだったとはとうてい考えがたい。御先祖様はこうしてちゃーんと私に一番良い道を用意しておいてくださったのだ。
 こういう経験から、私は、最善を尽くしながら、それでも案に相違した結果しか得られなかったならば、その案に相違したほうの道が、「御先祖様のお示し」なのだと納得するようになった。そうすると、無用の痛みや苦しみは感じないで済む道理である。
 そうして、何かあるごとに、懐《なつ》かしい祖父母の眠るお墓へ参って、水を注ぎ苔を掃《はら》って、心の中で話しかけることにした。むろん、御先祖様たちはなにも答えてはくれない。けれどもそうすることで、またなにか大切な折々には、不思議な形の「お示し」を下さるに違いないという気がするのである。
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