十九歳の頃、急激に痩《や》せたことがある。
「その日」が近づいてきたことを、私はヒシヒシと感じていたのである。
親以外の異性にからだを見られるかもしれないという予感は、甘くせつなく、私をダイエットにはげまさせた。
なぜなら、わが呪《のろ》われた家系の決定的遺伝因子である肥満は、当主の長女である私のからだをおかしはじめていて、夏休みに帰省した私の腹部を見て母親は、
「おこらないから正直にいってごらん」
といったぐらいなのである。
ダイエットの効果はかなりあったというものの、私のたっぷりと肉のついた下半身は、今日や明日、コトが起こったらかなり悲劇的事態が起こりそうなくらい、かなりなものであった。
「がんばろう、早く暗闇《くらやみ》かちとろう」
と私は考えた。
「なんとか避けよう、電気の明るさ」
映画など見ると、さっきまで明るい応接間で争っていたふたりが、いつのまにか暗い寝室に横たわっているのは、どう考えても不思議である。あれほど抵抗していた女が、いつのまにかスケスケのネグリジェを着ているのは、どうしても解せない。
異性体験のない少女というものは、男性のアレがからだに入ってどうのこうのということよりも(それはその時どうにかなりそうな気がする)、こうした間接的なものの方が、ずっと理解に苦しむものである。
「まあ、彼が電気を消すとする。するとその一瞬、いままで嫌がっていた(フリをしていた)私が、そこで逃げ出したりもせず、動きを止めて待っているのはおかしいものではないだろうか」
あれこれ考えると夜も眠れなくなってくる。そしてそんな自分に、顔を赤らめたりする毎日だった。
私は友人のひとりに聞いてみることにした。
「ねえ、彼とさ、ま、寝るとするじゃない。その時、電気は誰が消すの」
「まあ、私があとからふとん(その頃はみんな学生でベッドなんか誰ももっていなかった)入るから私ね」
「ふん、ふん。その時ちゃんと洋服か寝まき着てるの」
「着てるわけないじゃない。どうせすぐ脱ぐんだから、せいぜいスリップね」
話はこのへんでぐっとリアルになって、ウブな私は顔を赤らめたりするのだが、話をつづける。
「ね、スリップということは、最初からこっちもその気があるとみられてるみたいで恥ずかしくない? 『さ、やりましょ』って催促してるみたいでさ。コトが起こることが最初からわかってるみたいで、つまり、あの『えっ、こんなはずじゃないわ』と逆えなくなって……、えーと、その」
「なにいってんのよ、なにが恥ずかしいのよ。バッカみたい」
と、まあ話は全く通じないのである。
それではそんなに期待していて、最初どうであったか。よかったか、悪かったか、聞きたいのは人情というものであろう。
よかろう、私も出し惜しみせずお話ししよう。
よく女同士のヒソヒソ話に、
「はじめてナニをした時どうだったか」
というテーマがあるが、いつも私はとっさに「とび箱」という単語がうかんでくる。
学生時代、体育の時に使ったあのとび箱である。
私は少女時代から肥満がたたって、運動神経が鈍いというより、皆無の生徒だった。いちばん低いとび箱でも絶対にとべない。タイミングといおうか、おしりをパッと前にもっていく要領が全くわからないのだ。
私が通っていた小学校は、グループ学習の教育方針をもっていて、勉強でも体育でもひとりができない時は、グループ全体で責任をもって向上させよというポリシーだった。
だから私のいるグループの同級生たちは、私がこのとび箱をマスターしない限り、ぜんぜん前に進まないのだ。したがって班長なんかが実にまめに、放課後個人指導をしてくれる。
「だめだなぁ、マリちゃん。どうしてこんなのとべないの」
こうしているうちに日が暮れてくる。班長をしている子のイライラもだんだんつたわってくる。
みなができることが、なぜ私ひとりできないのだろうかという焦りと苛立《いらだ》ち。子ども心に深い孤独感。いまでもとび箱というと、寒々とした放課後の体育館の情景がうかんでくる。
初めて男の子とセックスした時、真っ先に思い出したのはこのとび箱だった。
私だけが間違っているのではないか。
私だけがとんでいないのではないか。
実際セックスというのは、私にとってそれほどむずかしいシロモノであった。
小説なんか読むと、
「めくるめくような時がすぎ去った。花子は自分がすべて無になったのを知った」
とか、
「嵐のような時がすぎ去って、いつのまにか朝になっていた」
とかなんとか描かれていたので、私もすごいコーコツとやらにホンロウされて、
「一瞬のような、永遠のような」SF的な不思議な時間感覚を味わえるのだと確信していた。
ところが現実は違っていたのね。
「いつ頃この手は離したらいいのだろうか」
「あ、このポーズだと、私のいちばんの弱点である出腹をしっかりと見られちゃう」
「キャッ、私ってからだが固すぎるのかしらん」
とまあ、実にいろんなことをシビアに考えるのですね。終った時は正直いって「ヤレヤレ」という感じでした。
けれどもこの時以来、わりとこれが好きになってしまったのね。困ったもんだ。
そして例によって私は好奇心が非常に旺盛《おうせい》なもので、男と男のからだというものをより深く観察することにしてしまった。
昼間は理知的なやや冷たい感じの(私は昔からこのテのタイプに弱い)彼の、その時の苦痛に近い表情や、闇の中のかすれたやさしい声が私にはとても新鮮で、全く私は有頂天になってしまったのだ。
そして私はこの印象を、克明というよりもかなり文学的にノートにいろいろと書いてしまった。(余談だが、私は生まれつきひどくだらしない性格である。こういう時のためにちゃんと日記を買って鍵《かぎ》でもしとけばいいものを、ひとり暮らしの気楽さもあってそこらへんのノートに書きちらしとく。そのうちに忘れてそのノートを仕事のメモに使おうとバッグにほうり込む。ある日大事な会議の途中でひろげたら、ものすごいナマナマしいことが書きちらかしてあって真っ赤になったことがある)
だから最近までつきあっていた男がかなりのプレイボーイで、いままで関係をもった女のことをかなり詳しくメモしてあるという噂《うわさ》を聞かされても、私はそれほど怒らなかったよ。
ああやっぱり、男も女と同じようなことをしているんだなあ、という感慨があったのみである。彼もいろいろ苦労しているのだ、きっと。
ネール首相が、娘のインディラに送った有名な手紙の中で、
「おぼえておきなさい。愛は闘争である」
といったそうであるが、愛という言葉をもっとひろげてセックスもその中に入れると「ナットク!」という感じ。
だから私はゆきずりラブをしちゃう子たちは、ものすごい勇気と挑戦スピリッツだなあと感心するのである。
私などかなり貞操堅固な女だと思われている。といったところで単にもてないだけの話であるが、歌舞伎町《かぶきちよう》や六本木で知り合ったばかりの男とリングへ上がろうとは思わない。私のことを多少|惚《ほ》れていてくれればこそ、試合中にゆれるデバラとか、「食[#「食」に傍点]魔の飽食」の丸太みたいな私の太ももにも目をつぶってくれ、試合が終ったあとはお互いの健闘をたたえ合い、汗のひとつも拭《ふ》き合うことができるというものである。こんな心の通い合いが、知り合ったばかりの挑戦者にできるものであろうか。
まあ手っとり早くいうと、私って新しい挑戦者の前でサラッとガウンを脱ぎすてるほど自信がないのよね。
これは私の友人も同じと見えて、「写楽」の森下愛子のヌード写真を見ていた時、
「ちょっと見てよ、こんなきれいなからだだったらどうする」
と質問したら、
「バカだねー」
とどなった。
「こんなからだしてたら、街に出てかたっぱしから男と寝ちゃうわよ」
私の友人の中では、比較的まじめな方に属する彼女がそういったから、女はみんな同じようなことを考えるのだなあと胸をなでおろした。
私はフリーで働いているからそう思うのかもしれないが、ゆきずりラブと同じくオフィスラブをしている人たちも、ものすごい勇気があるとひそかに尊敬している。
私はある苦い過去の失敗から、次の三か条を私への戒めとしている。
㈰コトを起こした次の朝、顔を合わせる必然性がないヒト。
㈪なるべく寛大な性格なヒト。
㈫なるべく目が悪いヒト。
この三つの条件をなるべく満たす人物と、楽しいひとときをすごしたいといつも思っているのだが、該当者はなかなかいないものである。
だからみんなにバカにされながら、いつまでも同じ男とズルズルとつきあってしまうのだ。私の場合。