私は他人からいわれるほどは、栄華栄達を求めない人間である。
うちのリビングで、ふかふかシャギーに寝そべって、おせんべなぞかじりながら女性週刊誌を読みあさる。あー、極楽、極楽。
私はいま「上手な男との別れ方」というページを読んでいる。
ふーん、なになに、
「決心をして彼と話し合おうときめた夜は、なるべく古い下着を着ていきなさい」
ものすごいひと言である。女心のキビに、これほど深く鋭くふれた言葉があるだろうか。だから私って女性週刊誌と離れられないの。
そうだわよねー、さんざん洗いざらして、ゴムのゆるくなったようなパンティと、黄ばんだブラジャーを着た日の女ほど、貞操堅固な存在があるだろうか。いくら寝室を真っ暗闇にしたところで、女の気持ちというのは、古い下着を着ているという一点に、煌々《こうこう》とライトがあてられるはずである。
私のアウトウエアからはなかなか信じてもらえないかもしれないのだが、私ってものすごーくセンシブルで高い下着をつけてんの。かの田中康夫センセイは、
「トリンプはダメだけど、ワコールなら許せる」
という名言をおっしゃったが、あのブランド大好きなセンセイが、こんな庶民的な下着を頭からかぶったりしちゃ嫌ですわ。
私なんかもうすごいんだから、フランス製のバルバラにウイットをご愛用ときちゃう。イタリアのラ・ペルラとまではいかないが、世界でも一流と折り紙つきの下着である。特にバルバラの一万三千五百円也の黒のブラジャーなんか、ブラウスの上につけて歩きたいぐらいキレイ。非常に繊細なレースがセクシーで、これをつけた日はインランな気分になって困るのです。
タネ明かしをすれば、私はこれらの下着の広告にちょっと関係しているので、六掛けで買えるの。そりゃー、そうです。一万円以上もするブラジャー、毎日下着を見せる商売でもしてない限り、私なんかにゃ買えませんよ。
しかし、一万円のブラジャーの味を知った女性は、もう二、三千円という日本の平均的価格のブラジャーなんかつけられませんよ。専門用語をつかうと、フィット感やサイドサポートの感じがぜんぜん違うんだもん。
お金持ちの初老の男と不倫していた女が、もう普通のサラリーマンと結婚できないようなものである。
私ももう庶民の世界にはもどれないの。
ところで、この頃よくわかったのだが、こういうふうにいい下着をつけることは、女は期待感までいっしょに身につけちゃうのね。これはかなり問題です。
よくフランス映画なんか見ていると、男と女がゆきずりの恋をして、どっかの部屋で突然ベッドシーンになることがずいぶん多い。女がパアーッとドレスを脱いだり、脱がされたりすると、ずいぶんしゃれた下着をつけていることに気がつきませんか。
最近まで、
「さすが映画、さすがフランス女」
と素直に感心していたのだが、よーく観察してみると、もっと深い意味があるような気がしてきたのだ。彼女たちの下着というのは、あまりにも非実用的である。あんな細くきゃしゃなストラップのブラジャーとか、フリルひらひらのキャミソールというのは、いくらおしゃれなパリ娘といえども毎日身につけているはずはない。あれは女たちが恋人と会う夜のためだけに、香水といっしょに引き出しの奥深くしまっておく種類のものだ。
「映画だから」
といってしまえばそれまでだが、この女の下着以外はしっかりとリアリズムなのだから、なにか下着だけがうきあがっている。
つまりヒロインとヒーローたちは、夜の浜べや酒場で偶然出会ったわけだが、このとき女の方には、誰だろうともう男と寝る気ができていたわけなのである。
男の方がずっと純情だから、女が自分にひと目惚れして、こういうふうにベッドルームまでいきつく首尾になったと思っているが、女の方はそうではなかったことを下着は暗示している。
自分でも気づかないままに、どんな男と出会うかわからない前から、それを身につけた瞬間に女の方の下地はもう完了ずみだったのだ。
すごい大恋愛映画も、こう考えてみると最初のシーンにすごい伏線がしかれているような気がするでしょ。
その気があるからそういうふうな下着をつけたのか、その下着をつけたからそういうふうな気になっていくのか。女と下着の関係は、ニワトリとタマゴ問題にもおとらないほどむずかしいのであるが、女には自分でもわからないほどふわふわととぶ日がある。ひとつの決着をつけるような気分で、派手な下着を選ぶ日がある。そんな時、女はこれから起こる運命をかすかに予感しているのかもしれない。
こういう下着の神秘さというのを、男たちはよおく知っているみたい。
だから女の部屋を訪れる男は、クローゼットに異常な関心をしめすのであろう。女が現に身につけている下着よりも、引き出しにぎっしりと詰まった下着の方が、いたく男をよろこばすことだって多いのだ。
考えてみると、女があれほど意匠をこらす場所が他にあるだろうか。
私は昔ユーミンの、
「色別にズラーッとしまってあんの。パンティのグラデーションよ」
という発言を雑誌で読んで、いたく感激したことがある。これを友人に喋ると、
「ふん、私なんか柄別だもんね。一段目は水玉、二段目は花柄よ、見て」
と引き出しをパッと開けてくれたが、その華やかなこと、きれいなこと。きっちりと詰めてあって、
「デパートのパンティ売り場みたい」
といってほめたのに、あんまりうれしそうな顔をしてくれなかった。なぜかしらん。
下着というのは自己満足の極致みたいなものだが、収納ということひとつとっても、女は自分でもうっとりするぐらいいつも酔ってみたいのだから、女って本当にすごい。
ところで話は変わるが、私はかの中国大陸において、パンティによる友好親善を果したことがある。
四年前、北京《ペキン》から上海《シヤンハイ》にかけて旅行した時、四人の女友だちが、餞別《せんべつ》にパンティを一枚ずつプレゼントしてくれたのだ。誰かが海外旅行に出かける時は、パンティを贈るのがその頃の私たちの習わしだった。しゃれてるでしょ。
みんなは、
「ふだん自分では買わないようなもの」
というポリシーに基づいて、えらく派手なものばかり選んでくれた。選ぶ彼女たちの個性でピンクのストライプのビキニから、人造宝石を紫のレースで囲ったトルコ嬢のパンティもかくやと思われるスゴイものもあった。
私は友情を胸に、パンティをスーツケースにしまって中国へと向かったのだ。
四日目ぐらいの上海のホテルでのこと、外から帰ってきた私はギョッと足をとめた。部屋の中に男がいたのだ。白い制服を着た老ボーイが黙々と掃除をしている。
なあんだと安心しながら、私はまずいことをしちゃったなと思っていた。例のトルコパンティを洗たくして二、三枚バスルームに干してきたのだ。
「社会主義の国で、少し刺激が多すぎたかもしれない」
と思いつつ部屋に入っていくと、彼は私を見て、
「ピィオレン(注! 美しいお嬢さんという意味)」と実に嬉しそうに歯ぐきを出して笑うのだ。
「キレイ……キレイ……」
彼の指は私ではなくバスルームをさしている。からだ全体がはずんでいた。
「トテモ……キレイ……」
私のパンティを見て、あれほど喜んだ男性は、その後ついにあらわれなかった。