私の友人たちの中にはJJガールを天敵と考える女性が多い。
その憎しみたるやすさまじくて、ある集りに年下の女子大生を連れていったところ、みんなロコツに仲間はずれにするのよね。
「すごくいい子なのになあぜ」
と聞くと、
「とにかくああいう格好していること自体許せないわよおー!」
と私がどなられてしまった。
そうかなあ、ふわっとカールしたセミロング、アルファ・キュービックのジャケットとスカート。いかにも清潔で可愛らしくって私は好きなんだけどな。
なにを隠そう、私は隠れ「JJ」ファンなのである。こんなことをはっきりいうと村八分にされてしまいそうだけれど、きれいなものはきれいだから仕方ないじゃん。
とにかくあれを読むと、私はある感慨にしみじみとふけってしまうのだ。
「日本って本当に金持ちと、幸せな女の子が多いなあー」
特に私が好きなのは、巻頭特集の「私のお気に入りのワードローブ」というページで、
「父とヨーロッパにいく時につくった君島一郎さんのイブニング」
「友だちを家に招く時のギ・ラロッシュのワンピース」
なんていうのがいっぱい出てきてすごく楽しい。しかもこれでブスつうのならまだ話はわかるけれど、みんなモデルにしたいようなきれいさとプロポーションのよさ。こういうのがどっかの御曹子とくっつくんだから、あたしらに玉の輿《こし》というのはまわってこないはずだなあーと、またまた感心してしまう。
このあいだ知り合いのデザイナーが結婚した。私のまわりの数少ない独身男性がこうしてひとり消えていったわけだが、彼の選んだのが誰でも知っている某大企業の社長令嬢。
さっそくわが賢母から電話がかかってきた。
「昔はいいとこのお嬢さんっていうのは、うちの中にしまってて勤めに出さないものだったけれど、いまじゃそういうコたちがやたら進出してきて、あんたたちのシマを荒らすからカワイソーだねえー」
そうなんですよ、お母さん。やっぱりJJガールというのは、男たちの永遠の憧れですもんね。誰かが「ニュートラというのは、セーラー服の延長だ」っていったけれどそのとおり。こっちとら勝ちめないのよ。
たまには、
「僕は個性的な女性が好きだ」
とか、
「お嬢さんには興味なくて」
とかいう男もいるけれど、私はこういうのをあまり信用しない。本当のフェミニストというのは、女性に対して実に保守的だということを私はよく知っているから。
「学生の頃、金がなくてバイトで店員してたとき、女子大生がやたら来やがるのさ。もうやたらまぶしくてよー、チキショウ、いまにこういう女を絶対モノにしてやるぞって思ったよ」
こういう男の告白の方が正直でよろしい。
さて、優雅な大学生活をおすごしになったお嬢さま方は社会にお出ましになる。
私のような怠け者は、親が金持ちで、働かずにいえにいろ、とかいってくれたら、大喜びで「家事手伝い」すんだけどなーとか考える。しかしこれが浅はかさ。
「JJ」誌をもっとじっくり読んでみよう。
「今年上智を卒業した○○○子さん、○○商社にお勤めです。仕事は海外プラント課のアシスタントですが、得意の英語を十分生かせる職場とはりきっています。週末二日はおもにゴルフ。職場の男性とのコンペに備えて練習にも熱が入ります」
楽しそう! これならいえにいるより、会社に行く方がずっといいわよねえー。エリート社員はよりどりみどり、どれもええとこの坊ちゃんを厳選してるから、学生の時の遊び仲間より、ぐっと質はあがってるはずである。おまけにお給料までくれるから、遊ぶ金には不自由しない。どうせたいていの場合は男が払ってくれるだろうし、いえには食費とかいって一万円出すぐらいでしょ。
いいな、いいな、私もできることならば、いいとこの女子大生から、いいとこのOLという道をとおってみたかった。パリスのブラウスに、バッグはクレージュ。その中にはディオールの口紅と、きちんとアイロンをかけたハンカチが三、四枚。こんな美しい日々をおくりたかったよおー。
彼女たちはやっぱりおリコウさんなんだ。無個性とかマンネリとかののしられようと、男がどういう女をのぞみ、どういう美しさをのぞんでいるか、ちゃんとわかっている。というより体得している。
私たちのような自由業の女共が、男の目よりも、まず自分たちの主張を優先しようとするのと非常に対照的である。
誰よりも先に、パンクヘアーをしたり、刈り上げをしたりして、
「これが私よおー、これが気にいらなきゃ近づかないでよ」
といったふてぶてしさが彼女たちにはない。万人に喜ばれるコツというのをちゃんと心得ているのは立派である。
私だってたどろうと思えば、彼女たちと同じような道を、もしかしたらたどれたかもしれないのだ。
しかし、私は結局は全く違うコースを歩いて、なぜか彼女たちとは相反するようなところまでいきついてしまった。
同じ時代に育った日本の女の子たちが、気がついてみると、姿かたちからして異質な離れたところに立ってしまったというのは、どう考えてもやはり不思議なのだ。