「他人から憎まれるのは気持ちイイもんだ」
一時期にせよ、こう思ったのは事実である。
ある広告の賞をとったのをきっかけに、若手のコピーライターの中で、私がぐんと目立ちはじめてきていた。女性コピーライターがマスコミに登場する時は、必ずといっていいほど私が誌面を飾った。
「あんだけ売り込みがうまけりゃ、なんだってできるさ」
「とにかくものすごい目立ちたがり屋なのよ、あの人は」
あっちこっちでピイピイ雑音が聞こえたが、それさえ私の自尊心を満足させるBGMになったものだ。そんなことをいっている連中はたいていコピーライター養成所の時の仲間で、ほんの二、三年前まではいっしょに酒を飲みまくっていた友人たちだということも知っていたが、それさえ別にさみしいとは思わなかった。
もし反対の立場になれば、私自身、彼らの三倍ぐらいの悪口を多分いっただろう。だから私はみなの気持ちが非常によくわかったし、それと同時に、私のいま置かれている優位な立場がたまらなくいとおしいものに思えてきたのだ。
私のような性格の人間にとって、優越感ぐらい心地よい感情はない。その時私ははっきりと結論をくだした。だからその感情を害するような人間が現われると、徹底的に陰口をいったもんね。私の陰口というのはかなり手が込んでて、絶対にストレートにはいわないの。
「あ、Aさん……、私はね、すごくいいひとだと思うんだけど、なんであんなに評判が悪いのかしら」
「へぇー、どんな評判?」
「たとえばさ、スポンサーの男とすぐ寝ちゃってそれで仕事もらうとか……。あー、これはひとから聞いたのよ。私、本人を知っているからまさかと思うけど。そういえばネ、こんな話も聞いたわ」
まあちょっと頭のいい人は、すぐに私のコンタンを見ぬいて軽蔑するだろうが、こんな話をするのはどうせ同じ穴のムジナっ子、なんて思われたって、証拠をつかませない話し方すりゃいいのよ。
そして私のこういった陰湿な攻撃をうけるのは主に女性たちで、男に甘いのはここでも同じである。というより、私はかなり男性の若手といわれる同業者に同情的だ。
「あたしら女の子だから、まぁ、途中でけつまずいても嫁に行けるわよね。あんたたち、これから女房、子どもを養ってくんだからホントにがんばってね」
と口に出してはいわないけれど、けっこう暖かい声援をおくっている。
しかし相手が女性となると態度が一変するから、コトはかなり問題である。私ってどうしてこんなに悪い性格なのかしらと、枕にわっとうっぷして泣きたいぐらい醜く嫉妬してしまうのよね。
コピーライターの世界というのは、よその人が思っているほど実力本位ではない。もちろん実力というより、ものすごい才能をきらめかして活躍なさっている方々も多いが、あれは一流ゆえの確かさ。われわれのように二流どこがひしめきあっているランクでは、ほんのささいなチャンスが、芽が出るか出ないかの大きな鍵《かぎ》になってくるのだ。たとえばいいスポンサーをつかむ、目立つ仕事を手に入れる、一流のデザイナーと組む、有名コピーライターの先生に目をかけていただく……etc。そしてこういう恩恵に浴しているのは、男性より女性の方がずっと多いのだ。そりゃそうだろう、書くものがそんなに違わなかったら、むくつけき男より、ちょっと小生意気な若い女の方がいいにきまっている。
そして私はこれらのチャンスを、実にふんだんに手に入れた女とされていた。事実はかなり違うのだが、最初にのべたようにそう思われることは、そんなに嫌じゃなかったのだ。だからちょっと目立つ女性が出てきたりすると、私はすぐ身構えてしまう。おいしいお菓子をひとりじめしていた幼児が、保母さんから「みんなにも少しあげなさい」といわれて、ギャンギャン泣きわめくようなものである。
考えてみると私の半生というのは、いつもこの菓子をめぐって、いじけたり、泣いたり、画策していたような気がする。
そしてほんの少し前までは、私はお菓子を絶対にほしがらないすごくいいコだったんだ。お菓子をいっぱいもっている女の子を女王のようにあがめ、家来のひとりとして満足できる性格だった。ホント。
私はまだ私の性格や、才能(いまあるものをそうよべるとしたら)に気づいてはなかった。あるいは気づいていたかもしれないが、なぜかそれをはっきりと表に出してはいけないと思いつづけていた。
ヤマちゃんってどうしてあんなにきれいなんだろ、レイコちゃんって本当に頭がよくていいひとなんだから。シナコちゃんは男の人にもてていいなあー。本当に純粋に感心しつづけていた二十歳の私。
こんな女の子が絶対に嫌われるはずがない。あの頃の私を悪くいう人は絶対にいなかったと思う。
「ドジで、子どもっぽくて、なにやってもダメな子。でも本当に可愛くっていい子よ」
これが大かたの私の評価だったと思う。そしてこれが、その頃の私の唯一のお菓子だったのかもしれない。そして私はこのひどく見劣りのするつまらない駄菓子を後生大事にもち歩いていた。「いいコ」でいるために努力をした。
でも私の中でなにかが生まれようとしていた。そのきっかけは、ある日、年上の友人がいったひと言だ。
「あなたは本当にみなに好かれていいわね」
それは本当に世間話程度の軽いお世辞だったが、私はいつになく強い反ぱつを感じた。
「そ、それは……」
私は口ごもった。どう表現していいのかわからない固まりがつきあがってきた。
「私が人に好かれるのは」
いいかけてやっと気づいた。
「私が人に好かれるのは、私がなにももってないからじゃありません?!」
強い口調に驚いたのは、友人よりも私だったと思う。
その時私は初めて願ったのかもしれない。
人に嫉妬されたい。
憎まれるほど強くねたまれたい。
こういう経過があったればこそ、私は冒頭の言葉をぬけぬけというのである。
それでは一時期の江川のように、悪役に徹しきれるかというと、そこが私のスケベ心いっぱいのところ。
「口は悪いけど、さっぱりしていて本当はいい人」
などという古典的なほめ言葉を要求したがるのよね。
こんな私でもつきあってくれる何人かの女友だちがいる。本当にありがたくて涙が出てしまう。それでも私の戦いはやまないのである。
「マリコよ、この頃どーお、仕事忙しい?」
「おかげさまで、○○会社のキャンペーンしててね。テレビCMもあるからいろいろと大変なの」
「ふうーん、あ、いまヤカンのお湯が吹き出したから、また電話するワ。じゃーね」
こうしてしばらくは音信不通になるけれど、私のことをうらまないでね。これは大切な友人を憎みたくなくて、必死で私がとっている自衛手段なのである。
やっと気分が落ちついた一週間後、
「あ、わたし、マリコ。忙しそうだから遠慮してたの。どーお、その後いろいろ大変でしょ」
「あ、あれ、頭にきちゃうわよ。確実なはずだったのに、プレゼンテーションで落ちちゃってさ」
「ホントー、あの代理店って本当にいいかげんねー。気分直しにどうお、いまからちょっと飲みにいかない」
わが辞書にライバルという文字は存在しないのである。ねたんで憎むか、無視するか、どちらかひとつ。いつになったら「お互いに刺激しあって、向上する」などという素晴らしい関係を手に入れることができるのであろうか。
まあ他の女からもそういう目にあったことがないから、お互いさまなのだろうかしらん。それでも映画「ジュリア」に泣く日もあるのよね。