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ルンルンを買っておうちに帰ろう25

时间: 2019-07-30    进入日语论坛
核心提示:女が外で食べるとき 働く女たちが、公衆の前に姿を現わすのは、たいていの場合食事どきである。 時計が十二時をまわると、オフ
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 女が外で食べるとき
 
 働く女たちが、公衆の前に姿を現わすのは、たいていの場合食事どきである。
 時計が十二時をまわると、オフィスからいっせいにときはなたれて、彼女たちはレストランにやってくる。
 彼女たちは意外と気づいていないようだが、制服とその食べっぷりで、世間の人たちからいろいろ感想をもたれているのだ。
「第一勧銀のコたちはやっぱりしっかりしてんなぁー。ランチサービスの中でもいちばん安いのたのむもんな」
「若いくせにうまいもん食いおって、さすが伊藤忠。会社の男たちにしょっちゅうおごられまくってんだろうな」
 と邪推するわけである。
 そして彼女たちが去って二時をまわる頃、ひっそりとやってくる女たちがいる。
 私と同じようにひとりで働いている女たちであろう。
 彼女たちは身のほどというのをよく知っている。いちばん店が混む昼どきにレストランに入って、ひとりでテーブルを占領するのが気がひけるのだ。かといって、さきの制服組たちと相席になるのは好まない。カウンター席はもっと嫌だ。となると、どうしても時間をはずして来るより他ないのだ。
 だから私たちはたいてい、ランチサービスの恩恵に浴すことができない。
 世の中にこれほど食べ物屋のガイドブックが出まわっているのに、どうして「女がひとりで食べる時」という本ができないのかいつも不思議に思っていた。
 はっきりいっていまの日本というのは複数化社会である。飲み屋はともかく、レストランとか食堂というのは、ひとりの客をそんなに歓迎してくれない。とくに女の場合、自前ではそんなに金を使わないと判断しているせいか、あつかいが荒いのよね。
 じゅうぶん時間を見はからっていっても、運わるく団体様がドヤドヤやってきたりすると、若い女店員が無愛想に、
「すいませんけど、カウンターの方に行ってください」
 と迫害にあったりするのだ。
 だから私はひとりで食事する時ほど、お金をかけることにしている。
 ちょっと高いけれどホテルのランチや、高級レストランの高級ランチ。案外穴場はデパートの名店街で、ひとりで買い物に来る婦人客が多いためかテーブルもふたりがけが多く、気をつかわずにいつでも感じよく食べられる。
 フリーで働き出した頃、ひとりで食事をするのが嫌で嫌で仕方がなかった。ひとり女が食事をしているのを見られるのが、たまらなくつらかった。どうしても店の中に入れず、お昼をぬいてしまうことも何度かあったと思う。
 そして私が考えついたことは、本を読みながら食べるということだった。店に入る前に週刊誌か文庫本を一冊買って、それを読みながら食事をするのだ。となると、食べるメニューもおのずと限られてくる。おみおつけと、スパゲッティが添えられたショウガ焼きなどという例のランチはまず食べられない。グラタンとかカレーとか、片手で食べられるものをいつも注文した。食事をするためにここに来たんじゃなくて、本でも読もうと思って立ち寄ってたまたまカレーを食べてるんです。といったポーズをとっていたわけだ。
 街の食堂で「漫画アクション」を見ながら冷やし中華を食べる学生と、ポーズは全く同じだが発想がかなり違う。
 いま思えば、自意識過剰がカレーを食べているようなものであった。もちろん味などおぼえているはずもない。かといって、みんな揃《そろ》ってレストランへ行った会社勤めの頃が恋しかったわけでもない。ただ、食べることがやたらめんどうくさかったことだけはよくおぼえている。
 大学生の頃、下宿暮らしは私だけだった。するとクラスメイトたちが、
「マリちゃんがひとりで夕ごはん食べるのはカワイソー」
 とかいって、毎晩夜までよくつきあってくれたものだ。「食べる」という根本的に個人的なことまでたっぷりと他人に甘えて、それが許された時期が私にもあった。もうそういうことは二度と訪れないだろうなと、まずいカレーを咀嚼《そしやく》しながら何度か思ったものだ。
 しかし、そういう時期が半年ぐらいすぎると、私はひとりで平気でレストランに入れるようになった。もう週刊誌は読んだりせず、背すじをしっかりとのばし、きちんと定食を食べ、コーヒーまでゆっくりとすませられるようになった。
 それと同時に、私は映画館へもひとりで入れるようになっていったのだ。
 それまで私が映画を見るというのは一大事業であったといってもよい。学生の頃、一度痴漢にあったのをいつまでも大げさにいいたてて、必ず誰かいっしょでなければダメなの、といいふらしていた。友人と日時をきめ(私の友人は時間に実にチャランポランなのが多い)、服を選び、待ち合わせて映画の前に軽いおしゃべりをして、という手順をふまなければ、私の映画鑑賞は成立しなかったのだ。
 ところがいまではむしろどこかの行き帰りにひとりでブラッと立ち寄ることの方が多い。痴漢が心配ならば、通路寄りの席に座って隣に荷物を置けばいい。見たいものは、自分ひとりで知恵を働かせて、さっさとそれをすませればいい。
 こんなシンプルなことにどうしていままで気づかなかったのだろうかと、その爽快《そうかい》さに目を見張る思いであった。
 私ぐらいの年齢になっても、
「私いまでも、食べ物屋と映画館ひとりで行けないんですぅー」
 という女が多い。
 それには、口に出さない下の句があって、
「だって私すれっからしじゃないんだもん」
 とか、
「うふっ、私って甘えん坊なのね」
 という言葉がつづくのだ。
「女の�連れション�が姿を変えるとこうなるんだな」
 と内心思うけれどそう不愉快ではない。私もそういっていた時期が長かったし、私だってあの時ああなって、ああいうふうにコトが運べば、いまでは幸福なヒトヅマ。テニスクラブで知り合った奥さま方と電話をかけあって、
「伊勢丹でバーゲンやってるの。そのあと映画見ない。あ、待ち合わせはお昼前にしましょ。私ってレストランと映画はひとりじゃ入れなくて」
 なんて絶対にいっているはずだもの。
 まあひとつ確かなことは、食事にしても映画にしても、ひとりで食事ができ、ひとりで映画を見ることができる女友だちといった方が、絶対においしく、楽しいということだ。
 などと珍しく彼女たちをほめて思いうかべながら、気づくことがあった。
 このふたつができるようになったから、私たちって嫁《い》き遅れちゃったのネ。
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