小学生の頃、いつも通う塾の途中に踏切があった。
いまではもう見られないけれど、そこには踏切番のおじさんがいて、列車が通過するたびに踏切を上げ下げしていた。
それは冬の寒い日だった。おじさんがお弁当を食べているのを私は見てしまったのだ。
背を丸くまるめて、鼻をすすりながらかき込むように彼は食べていた。吐く白い息がアルマイトのそまつな弁当箱の上にかかって、まるで湯気のように見えた。
私は見てはいけないものを見たせつなさに思わず走り出した。わけのわからない悲しみに、思わず涙が出てきそうになったのを、昨日のようにおぼえている。
そんな繊細な心をもった少女が二十年後のいま、体重計の上にのって思わず涙をこぼしそうな毎日をすごしているのだから、皮肉なものだ。
実に私はよく食べるのである。性的なものの代償行為として、人は食欲の方へ走るとかよくいわれるが、なんとなれば私のこの膨大なぜい肉は、モテないことの怨念《おんねん》にほかならない。
おいしいものには目がないうえに、好奇心が異常に強い。たとえばダイエット中にクッキーを出されたとする。ふつうのクッキーだったらまあがまんする。けれども、
「麹町《こうじまち》の村上開進堂のよ」
とか注釈がつくともうムラムラとほおばってしまうのだ。
「未知の経験は、すべてに優先されるべきである」
というのは私の持論であって、食べもののブランドだけは見た目ではわからないので、ついつい試してみるのである。
広告の仕事はなんだかんだいっても派手な世界である。一流の人ほどお金をもっていて、外国にしょっちゅう行っていて、そして食いしん坊である。みんな食べることにものすごい情熱とお金を使っている人ばかりだ。
先日エライ人五、六人で仕事の打ち合わせをかねて青山の「サバティーニ」へ食事をしに行った。
「いやー、先月パリへ行ったからアムステルダムまで足をのばして、鴨《かも》を食べてきましたよ」
「京都の柊屋さんが出してくれた筍の初ものがおいしかった」
とかいう豪華|絢爛《けんらん》な話が波うつ、ものすごい世界が展開されたのである。
私はもちろんいちばん若くて、下っぱであるから、もくもくとめったにありつけないご馳走《ちそう》をほおばりながら、先生方のお話を拝聴していた。
「いまや食こそがステータスの時代なのだ」
本当にそう思った。私もシャトーなんとかいうワインの名前がスラッと出てくるぐらいまでにグルメになりたいと切実に願ったのである。
それまでの私はただの食いしん坊であってスケールがやや小さかった。「ラ・マレ」や「ア・ラ・ターブル」のフランス料理がおいしいとかなんとかいったって、せいぜいランチサービスで二回か三回食べたくらい。有名中国料理店へ行っても、トリソバと豚のカシューナッツ炒《いた》めオンリーじゃ、食べるもののことを論じるのは、あまりにもおそれおおいというものであろう。
それでも私は少しずつ努力をした。麻布に引っ越してからはわりと環境に恵まれたせいもあって、私の食生活は日々向上の一途をたどっていった。パンはサンジェルマンかドンク、チーズとハムは紀ノ国屋ときめるようになった。
この紀ノ国屋こそわが思い出の地であることを知る人はほとんどない。
大学の時の親友で悦ちゃんというのがいた。悦ちゃんは地方の大富豪の娘で、原宿に広いマンションを買ってもらって住んでいた。当時私は四畳半に住む貧乏学生であったから、このような友人を得たことを天恵と感謝しつつ、そのデラックスマンションに居候をきめ込んでいたのである。
夕飯どきになると悦ちゃんは私を買い物に誘う。行く先はいまはなきユアーズか、紀ノ国屋であった。
「今夜はなんかスキヤキを食べたい気分」
とかなんとかいって、悦ちゃんは百グラム七百円の牛肉を七百グラム買ったのである。いまは七百円の牛肉といったらそう高くないかもしれないが、七年前の七百円といったら当時の私の一日分の食費であった。その高い肉をなんのためらいもなく七百グラムも買う彼女に、本当に私はドギモをぬかれた。そしてさらに驚いたことに、悦ちゃんはシラタキや焼ドウフ、ネギのたぐいまで紀ノ国屋で買ったのである。
悦ちゃんはいま思い出してもかなりの美人であった。その悦ちゃんがセーターをはおらずに腰のへんでラフにしばって、無造作に買い物かごにシイタケを入れている光景はものすごくサマになっていた。その頃はクリスタルとかブリリアントとかいう言葉はなかったから、もうもろに紀ノ国屋の世界である。私はうっとりとレジのところに立って、それをながめていたものだった。
この麻布のマンションに引っ越せるぐらいまで私が出世して、まず最初にやりたかったのはこれである。
地理的にいえば六本木の明治屋の方が近いのだが、私はなんと大胆にもタクシーを走らせて紀ノ国屋へ行ったのである。もちろん帰りもタクシー。紀ノ国屋の紙袋をもってバスなんかに乗ったりしてはいけない、と私は思ったのだ。
紀ノ国屋で私はキュウリを買った。トマトも買ったし、ホウレンソウだって買った。セロリはもちろん忘れずに買った。だって広告なんかに出てくるお買い物シチュエーションって、必ずスーパーの紙袋からセロリとフランスパンがのぞいてるでしょ。
しかし近所の八百屋で買えば、一山二百円ですむトマトが、なんと二個で三百円もするんだから。私はなんと一回の買い物で一万円以上も使うという、超ブルジョア的な行為をしてしまった。私は自らこの行動に甘く酔って、ドキドキしながらエレベーターに乗った。
ちなみに紀ノ国屋のレジは二階にある。一階から二階に行くまでは二基のエレベーターがあって、三越も真っ青のすごい美人、もしくは美男子の係員が乗り込んでボタンを押してくれるのである。
観察した結果、ここの口上は全くデパートのそれと同じだ。
「本日は毎度紀ノ国屋をご利用くださいましてありがとうございます。二階は精算所および駐車場入口となっております」
デパートと違って紀ノ国屋は二階までしかないのだからかなり忙しいと思うのだが、彼女たち、もしくは彼たちは実に優雅にこれだけのことをちゃんというのである。
最初私は、なぜ近くのピーコックのように、このエレベーターをエスカレーターにしないのか不思議でたまらなかった。経費だって節約できるだろうし、客だって待たなくていい。その分値段を安くしてくれりゃいいのに、と本気で腹を立てていた。
でもよく考えてみると、そんなこと考えてるようじゃここの常連にはなれないのね。
私はある日、このエレベーターがなにゆえに存在するかという理由を発見して、愕然《がくぜん》としたのである。
その日私は財布の中に、三千円しか所有しなかった。三千円で紀ノ国屋で何をどれほど買えるか、ということは、外国の免税店で電卓を片手に買い物するよりはるかにむずかしい。しかしその日どうしても手に入れたいチーズがあったし、冷蔵庫必需品のラーマも切れていた。
いまの私の生活は、チーズ一箱とラーマ一箱しか要求してなかった。だからこの二つしか買わなかった。けれどもそれは、ここ紀ノ国屋においては、非常に肩身の狭いみじめなことだったのである。
例のごとく私はエレベーターに乗った。私以外の客は、ワゴンを二段にして品物を山盛りにした人々で、豪華強大冷凍肉から、クリネックスティッシュまでギッシリ入っている。一階から二階に上がる間、わずかだが密室独得の沈黙がある。人々はその時さりげなく、他人のワゴンをチラッチラッと見るのだ。
カゴの中にチーズとラーマを入れただけの私が、人々の冷ややかな視線にあったのはいうまでもない。
「フン、おおかた田中康夫かなんか読んだ埼玉近郊の女が、話のタネに紀ノ国屋に来たのはいいけど、あんまり高いからラーマ買って帰るんだろう」
私は慣れない雰囲気の中、次第に被害妄想におちいっていた。
「負けてはならない。なんとかこの状態を打開しなければ」
私は胸をはって、いかにも物なれたふうに、エレベーターの壁に軽く腕をかけた。
「わたし、青山に住んでる女の子よ。それでさっき冷蔵庫開けたらラーマなかったの。それで買いに来たの。ほら、こことうちって目と鼻の先でしょ。だからセブンイレブンの感覚で、いるものだけすぐに買いにきちゃうの」
と私は演技したのである。だから二階につく頃にはクタクタになってしまった。
それでもしばらくは私は紀ノ国屋に身もお金もいっぱい捧げたものである。客が来る時は、ここのテリーヌとかサラダのデリカテッセンでもてなし、
「近頃すごくもうかっている」
という噂をたてられたりもした。なにせ私はすごいグルメになるのだから、少々のお金を使っても仕方ないと思っていたのだ。
ある朝、私は目ざめたらかなりの空腹を感じていた。
「パンを食べよう」
と私は思った。けれども、
「サンジェルマンか、もしくはアンデルセンのパン」
というはっきりした限定が、私の頭の中につくられていたのだ。
地元のヤマザキのパンではダメと、私のからだと美意識が叫んでいた。
それで仕方なく私は服を着かえて、青山通りまでバスで行かなければならなくなったのだ。
途中、私は腹立たしさがジワジワとおしよせてくるのを感じた。
「知らない頃の方がよかった」
もっと生活が気楽だった。どこのパン屋でもよかったし、不平不満なくおいしく食べていた。
「どうしてこんなことになったんだろう」
何度も自分に問い返した。
サンジェルマンのパンは確かにおいしい。
けれども、なんとたくさんの自由と時間を私から奪ったことであろうか。
「食べることは恥ずかしさと悲しさがつきまとうことだ」
幼い私が直感として得たこのことが、なぜかこの頃私につきまとって離れない。